「ジョーゼフ・ピューリツァー」の版間の差分

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[[1883年]]にピューリツァーは[[ジェイ・グールド]]から346,000ドルで[[ニューヨーク・ワールド]]紙を購入した。それは年間40,000ドルの赤字を出していた。ピューリツァーはワールド紙の焦点を、人間の興味の物語、スキャンダルおよびセンセーショナリズムへ移した。[[1885年]]、彼は[[アメリカ合衆国]]連邦下院議員に選任された。その購読者数は彼が同紙を購入した時点の15,000から600,000に達しアメリカで最大の新聞になった。[[1887年]]には、彼は有名な[[ジャーナリスト]]、[[ネリー・ブライ]]を雇用した。
 
ライバルの[[ザ・サン (1833年創刊)|ニューヨーク・サン]]紙の編集者は、[[1890年]]に彼を「信仰心を放棄したユダヤ人」と呼んで、紙上で攻撃した。彼は新聞の財務管理を維持したが、ピューリツァーの[[ユダヤ人]]の読者数を疎外すると意図した動きはピューリツァーの健康を急速に悪化させた。また、彼は[[主筆]]の職を辞任した。
 
[[1895年]]2月、移民街を描いたリチャード・F・アウトコールトのマンガ『ホーガン横丁』の転載(『トルース』誌から)を行う。以後、新作が不定期掲載される。