「小倉藩」の版間の差分

[[文久]]3年([[1863年]])には、海防強化のため[[関門海峡]]沿岸に葛葉台場・東浜台場・西浜台場等の[[砲台]]を建設し、補助兵力として農兵の募集・訓練も開始した。この年には対岸の[[長州藩]]が関門海峡を通行する外国船に砲撃を行い、[[下関戦争]]につながってゆくが、[[江戸幕府|幕府]]は敵対行動を取っていない外国船への一方的な先制攻撃を指示しておらず、小倉藩は配備は敷いたものの戦闘行動は行っていない。また[[慶応]]元年([[1865年]])には[[蒸気船]]・[[飛龍丸]]を購入している。
 
[[長州征討]]では、小倉藩は幕府側の[[九州]]側最先鋒として第一次、第二次ともに参加した。元治元年(1864年)の第一次[[長州征討]]では長州藩が江戸幕府に対する恭順を示し、戦闘は発生しなかったが、慶応元年(1865年)の第二次長州征討(四境戦争)では、小倉藩は総督・[[小笠原長行]](同じ小笠原だが、忠真の兄[[小笠原忠脩|忠脩]]の子孫で[[唐津藩]]藩主[[老中]])の指揮下で小倉口の先鋒として参戦した。この戦闘は幕府・小倉藩に不利に展開し、長州軍の領内侵攻により[[門司区|門司]]が制圧され、小笠原総督は事態を収拾することなく戦線を離脱し、他の九州諸藩も撤兵。孤立した小倉藩は慶応2年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]([[1866年]][[9月9日]])小倉城に火を放ち(小倉城自焼は一説に熊本藩の竹崎律次郎の勧めとも言われる)、[[田川郡]]香春(現・[[香春町]])に撤退した。香春撤退後も、家老・[[島村志津摩]]を中心に軍を再編して[[企救郡]]南部の金辺峠及び狸山に防衛拠点を築き、高津尾を前線基地として長州軍に遊撃戦を挑み、一時は小倉城を奪還するに至った。しかしながら、同年10月には他戦線での停戦成立に伴って長州側の兵力が増強され、次第に圧迫されるようになり、多くの防衛拠点が失われ、停戦交渉が開始された。交渉は困難を伴い、停戦成立は翌慶応3年([[1867年]])1月20日となった。この停戦の条件として、企救郡については、長州征討の根拠の一つであった長州藩主父子の罪が解かれるまで長州藩が預り、引き続き占領下に置くこととされ、小倉藩の手を離れることとなった。企救郡はその後も小倉藩に返還されず、[[明治]]2年([[1869年]])に[[日田県]]の管轄に移されることとなる。
 
慶応3年3月に藩庁を正式に香春へ移転。この香春に藩庁を置いている時期について、後年'''香春藩'''と称されるようになる。更に[[明治]]2年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]([[1870年]][[1月25日]])には[[京都郡]]豊津(現・[[みやこ町]])に藩庁を移し、'''豊津藩'''となった。なお、藩庁として建設された[[豊津陣屋]]の建造物のうち、藩校表門が現存している。