「北欧史」の版間の差分

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グスタフ1世、クリスチャン3世の時期には、スウェーデン、デンマーク間では平和が訪れたが、クリスチャン3世が1559年にグスタフ1世が1560年に亡くなると、両国は北海、バルト海の覇権を巡り宿敵の関係となっていった。国内体制の整備が進むにつれてスウェーデンは領土的野心を抱くようになり、次代の[[エリク14世 (スウェーデン王)|エーリック14世]]は1561年、[[エストニア]]に兵を派遣してその領有に成功する。1563年にはデンマークに宣戦し、[[北方七年戦争]]が開戦した。この戦争は[[1570年]]の[[ヨハン3世 (スウェーデン王)|ヨハン3世]]の時代に終結し、デンマークとの間で[[シュテッティンの和約]]が締結された<ref name="tunoda_074">[[#角田1955|角田1955]]、p.74。</ref>。ヨハン3世の推戴によって[[ポーランド・リトアニア共和国]]の国王に就いていた[[ジグムント3世]]がスウェーデン国王に即位すると元老院との間に亀裂が生じ、[[1599年]]に退位させられる。[[1604年]]にはこの動きを主導した[[カール9世 (スウェーデン王)|カール9世]]が即位したことにより、[[スウェーデン・ポーランド戦争]]へと発展していった<ref name="tunoda_074"/>。
[[File:Battle of Lutzen.jpg|thumb|left|250px|「北方の獅子」として名を馳せた[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]は[[1632年]]の[[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]]において戦死を遂げる。]]
[[1611年]]、カール9世の死後、その息子である[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]が即位する。グスタフ2世アドルフは先代が始めたロシアやデンマークとの戦争を巧みに終結させるとその戦力をポーランドに集中させ、[[1629年]]にはスウェーデンに有利な条件での講和条約([[アルトマルク休戦協定]])を締結することに成功する<ref name="tunoda_076">[[#角田1955|角田1955]]、p.76。</ref>。他方、スウェーデンとの戦争が終結したデンマークの[[クリスチャン4世 (デンマーク王)|クリスティアン4世]]は、新教派の盟主という名目の下、[[1625年]]に[[三十年戦争]]へと参戦する。雄飛の野心に燃えていたクリスティアン4世であったが、[[ティリー伯ヨハン・セルクラエス|ティリー伯]]との戦いに敗れ、[[1629年]]には[[リューベック条約|リューベックの和議]]によってドイツへの不介入を約束することとなった<ref name="tunoda_077">[[#角田1955|角田1955]]、p.77。</ref>。ポーランドとの問題が解決し、デンマークと入れ替わるように三十年戦争へ介入を始めたスウェーデンは[[1630年]]に[[ポメラニア]]に上陸し、[[シュチェチン]]の占領に成功する<ref name="tunoda_077"/>。ティリー伯が起こした[[マクデブルクの戦い|マクデブルクの惨劇]]を受けて奮起したスウェーデン軍は連戦連勝を重ね、[[1632年]]の[[レヒ川の戦い]]にてついにティリー伯を打ち倒した。同年の[[リュッツェンの戦い (1632年)|リュッツェンの戦い]]においてグスタフ2世アドルフが戦死するもスウェーデン軍は快進撃を続け、帝都[[ウィーン]]に迫る形勢を示した<ref name="tunoda_078">[[#角田1955|角田1955]]、p.78。</ref>。
 
これを見て北欧の覇権がスウェーデンに移ることを危惧したクリスティアン4世は様々な手段を用いてスウェーデン遠征軍の妨害を試みた<ref name="tunoda_078"/>。こうした行為に憤激したスウェーデンは[[1643年]]、デンマークに対して宣戦しユトランド及びスコーネへ進軍した([[トルステンソン戦争]])。[[1645年]]、[[ブレムセブルー条約]]の締結に至ったこの戦争は[[サーレマー島]]、[[イェムトランド地方|イェムトランド]]、[[ヘリエダーレン地方|ヘリエダーレン]]、ゴットランドをスウェーデンに割譲する結果となっている。スウェーデンはさらに[[1648年]]の[[ヴェストファーレン条約]]によってブレーメン教会領や西ポメラニアなどを獲得し、名実共に宿願であった[[バルト帝国]]を築き上げ、欧州列強に名乗りをあげることとなった<ref name="tunoda_079">[[#角田1955|角田1955]]、p.79。</ref>。
 
=== 絶対王政の確立 ===