「池宮彰一郎」の版間の差分

編集の要約なし
{{Portal|文学}}
'''池宮 彰一郎'''(いけみや しょういちろう、[[1923年]][[5月16日]] - [[2007年]][[5月6日]])は、[[日本]]の[[脚本家]]、[[小説家]]。本名の'''池上 金男'''(いけがみ かねお)で脚本家として活動、『[[十三人の刺客]]』など数多くの映画・テレビドラマの制作に関わった。1992年に小説『[[忠臣蔵 四十七人の刺客|四十七人の刺客]]』を発表して以降、池宮彰一郎のペンネームを用いて[[歴史小説]]を著したが、2002年に[[司馬遼太郎]]作品との類似問題により活動をほぼ停止した。
作家の[[池上司]]は息子。
 
戦後、[[三村伸太郎]]への師事を経て、映画脚本家となる。本名の池上金男名義で脚本を書き、『[[十三人の刺客]]』『[[大殺陣]]』で京都市民映画脚本賞を受賞する。
 
[[1992年]]、69歳の時に池宮彰一郎として執筆した、小説家としては随分遅いデビュー作『[[忠臣蔵 四十七人の刺客|四十七人の刺客]]』で[[新田次郎文学賞]]を受賞する。[[1999年]]、『[[島津奔る]]』で[[柴田錬三郎賞]]を受賞する。脚本作家である経歴を生かし、特に戦争や戦闘のシーンにおいて軽妙で迫力のある文章を得意として、人気を博した。
 
[[司馬遼太郎]]を深く尊敬しており、口演にて「日本の小説は[[私小説]]が主体であったが、司馬遼太郎の歴史小説は大河的であり、日本の小説の流れを変えた作家であった」との内容を述べている。また、「歴史小説はそれまでの歴史[[考証]]にとらわれ過ぎてもならないし、逆に歴史を全く無視してもならない」と述べ、独自の歴史考証を行うことで新感覚の歴史小説を生み出していた。
『四十七人の刺客』では大胆な考証を多数織り交ぜ、映画化を果たしたこともあり話題となった。例えば、江戸の町は治安のため、夜間は町ごとに門を設けて通行できないようにしてあった。当然[[赤穂浪士]]は移動のための工夫が必要であったはずで、池宮は大胆にも水路の移動が最も合理的であると判断し、作中でそのように描いた。
 
作品全体を見れば、独自の視点を沢山盛り込んでおり、クリエイティブな作家であったが、デビュー当初ですでに老齢でもあり、作品数には限界があった。さらに、加えて晩年、著作中、一部の文章に、他の作家の作品との類似が指摘され、以下のような盗作疑惑が持ち上がることとなった。
さらに、加えて晩年、著作中、一部の文章に、他の作家の作品との類似が指摘され、以下のような盗作疑惑が持ち上がることとなった。
 
;盗作疑惑
『遁げろ家康』([[朝日新聞社]])は[[司馬遼太郎]]の『[[覇王の家]]』との類似点を指摘され、[[2002年]][[12月25日]]に絶版・回収となる。同じく『島津奔る』([[新潮社]])も司馬の『[[関ヶ原 (小説)|関ヶ原]]』との類似の問題で、[[2003年]][[4月3日]]に絶版・回収となった。池宮は、「家内の病気や引っ越し、連載が重なり混乱し、資料と先輩作家たちの作品が混ざってしまった。自戒の意味から絶版をお願いした」とのコメントを発表した。ネタ元があまりにも有名すぎるだけに、この弁明にはある程度の信憑性もあるが(司馬作品はいずれも現役のロングセラーであり、同ジャンルで読者層も共通している以上、常識で考えて露見しないはずがなく、その危険に考えが及ばなかったこと自体、混乱した精神状態であったことを伺わせる)、一方で話題性も大きく、作家生命を痛撃することになった。結果として、司馬遼太郎財団から、著作権侵害の訴訟等は起こされなかった。
結果として、司馬遼太郎財団から、著作権侵害の訴訟等は起こされなかった。
 
この2作以外にも「類似」を指摘する声があり、事件以後は連作の『平家』を除いて新作が出版されることはなかった。ただし、その後も『密約―西郷と大久保』を雑誌『[[小説野性時代|野性時代]]』に連載していたが、第一部で未完となった。
ただし、その後も『密約―西郷と大久保』を雑誌『[[小説野性時代|野性時代]]』に連載していたが、第一部で未完となった。
 
2007年5月6日午後8時26分、[[肺癌]]のため自宅で死去した。享年83。