「トゥールーズ伯」の版間の差分

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レーモン4世が聖地に赴いている間、トゥールーズはアキテーヌ公[[ギヨーム9世 (アキテーヌ公)|ギヨーム9世]]に占領された。ギヨーム9世は彼の妻フィリッパがギヨーム4世の娘であることからトゥールーズの継承権を要求したが、トゥールーズを長く保持することは出来なかった。レーモン4世の継嗣ベルトランは父に倣い[[1109年]]に聖地に赴きトリポリ伯位を継ぎ、トゥールーズは弟のアルフォンス・ジュルダンに遺された。アルフォンスの統治はギヨーム9世とその孫娘[[アリエノール・ダキテーヌ]]の野心により混乱した。アリエノールは夫[[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]]に戦争により彼女の権利を守るよう要求した。ルイとの離婚とイギリス王[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]との再婚で、アリエノールの要求はヘンリー2世に受け継がれ、ついに[[1173年]]、ヘンリー2世はレーモン5世に対して、臣下の礼を取らせるに至った。[[トゥルバドゥール]]のパトロンとして知られるレーモン5世は[[1194年]]に死去し、息子[[レーモン6世 (トゥールーズ伯)|レーモン6世]]が継いだが、彼は破門され、教皇[[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]により一時トゥールーズ伯位を差し止められた。[[1208年]]、異端[[カタリ派]]の鎮圧のため訪れていた教皇特使ピエール・ド・カステルノーがレーモン6世の家臣により暗殺され、この事件をきっかけに[[アルビジョア十字軍]]が結成された。[[ラングドック=ルシヨン地域圏|ランクドック]]は[[レスター伯]][[シモン・ド・モンフォール (第5代レスター伯)|シモン・ド・モンフォール]]率いるアルビジョア十字軍により荒廃した。レーモン6世は[[1211年]]に破門された上、[[1213年]]のミュレの戦いにおいて敗北し、[[1215年]]の[[第4ラテラン公会議]]において伯の財産を没収された。シモン・ド・モンフォールは[[1215年]]にトゥールーズを占領したが、[[1218年]]のトゥールーズ包囲戦で戦死し、レーモン6世は伯領を奪回した。
 
[[レーモン7世 (トゥールーズ伯)|レーモン7世]]は、レーモン6世とイギリスングランド王女[[ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃)|ジョン]]との息子であり、[[1222年]]に伯位を継いだ。異端派の抵抗が続く中、[[1226年]]にレーモン7世の破門および伯領のフランス王への帰属が決定されると、フランス王[[ルイ8世 (フランス王)|ルイ8世]]は軍を率いてランクドックを制圧した。[[1229年]]のモー条約(パリ条約)において、レーモン7世は新王[[ルイ9世 (フランス王)|ルイ9世]]にローヌ川以西の領地を譲渡、一人娘で相続人の[[ジャンヌ・ド・トゥールーズ|ジャンヌ]]とルイ9世の弟の[[ポワチエ]]伯アルフォンスとの結婚を承諾した。[[1249年]]にレーモン7世は死去し、トゥールーズはジャンヌとアルフォンスが相続したが、二人の間には子供がなく、ともに[[1271年]]に死去し、広大なトゥールーズ伯領はフランス王領となった。
 
== トゥールーズ領主一覧 ==