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[[File:Abraham Bosse, Actors at the Hotel de Bourgogne 2, ca. 1633–34.jpg|thumb|ブルゴーニュ座の役者たち</br>右から3人目:グロ=ギヨーム</br>4人目:ゴーチエ=ガルギーユ</br>5人目:チュルリュパン]]
'''オテル・ド・ブルゴーニュ座'''('''Théâtre de l'Hôtel de Bourgogne''')は[[フランス王国|フランス]]において、17世紀まで存在した劇場、ならびにそこを拠点とする劇団。パリで最初の常設劇団であり、コメディ・フランセーズの前身である。1548年から存在する劇場であったが、1629年にルイ13世から認可を受けて正式に王立劇場、劇団となった。
 
== 17世紀初頭の公演事情 ==
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== 歴史 ==
1548年、中世宗教劇の上演団体である受難劇組合('' Confréres de la Passion '')によって設立された。ブルゴーニュ邸という貴族の邸宅にあったことが、その名前の由来である。この劇場では専ら受難劇組合が聖史劇(聖書を題材とした劇)を上演していたが、その公演内容があまりに低俗であるという理由で、設立と同じ年に上演を禁じられてしまった。受難劇組合はパリでの興行権を独占していたので、劇場まで自身で所有することでさらにその立場は絶対的なものとなるはずであったが、この上演禁止でさっそく出鼻をくじかれてしまった。上演する演目に困った組合は、興行成績が落ちていったこともあって、この劇場を賃貸に出してなんとか糊口をしのぐことにしたのであった<ref>[https://kotobank.jp/word/ブルゴーニュ座-127218 コトバンク「ブルゴーニュ座」]</ref><ref>フランス十七世紀の劇作家たち 研究叢書52,中央大学人文科学研究所編,P.6、30-1,中央大学出版部,2011年</ref>。
 
=== ヴァルラン・ル・コント座 ===
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この劇団の座長であるヴァルラン・ル・コントという役者についてはよくわからないが、1592年ころにはすでに役者として地方巡業を行っていたようである。1598年に座長となり、ブルゴーニュ劇場で[[アレクサンドル・アルディ]]などの悲劇の上演を試みるも、無残に失敗してしまった。この頃の観客たちは先述したように品性下劣で、「悲劇」などという高尚なものは理解できず、もっぱら笑劇や刺激的な場面を求めていたからである。再び地方巡業に戻り、1606年にパリに戻ってきて、ブルゴーニュ劇場で公演を行っている。1607年にヴァルランは新たな劇団を立ち上げたようだが、その中にラシェル・トレポー(''Rachel Trepèau'')なる女優がいた。この時代は「女優」などというものは存在せず、女性役でも男優が演じるのが普通であったから、このトレポーなる女性はフランスの女優の草分け的存在である<ref>Ibid. P.27-8</ref><ref>戸口 P.11</ref>。
 
この新たに組織された劇団は、1609年から10年にかけて、ブルゴーニュ劇場で公演したとの記録が残っている。この際の契約書には、後に「王立劇団」で大人気を博すことになるゴーチエ=ガルギーユやグロ=ギヨームの名前が見られるが、彼らの名前は1611年9月には消えてしまう。その代わりに[[アレクサンドル・アルディ]]が出てくるのだが、これらからわかるように、当時は劇団と役者はほとんど単年契約を結んでおり、人材の流動性は極めて激しいものであった。劇団間の競争もこのあたりから激化していったようだが、ヴァルラン・ル・コント座は相変わらず経済的に困窮しており、1611年にはブルゴーニュ劇場の一部を又貸ししている。同じころ、一座は「王立劇団(''Troupe royale des comédiens'')」と称し始めた<ref>中央大学編 P.6,28</ref>。
 
=== オテル・ド・ブルゴーニュ座王立劇団 ===
1590年代半ば頃から上記の付役者立劇団なる称号をヴァルラン・ル・コント座が有していたようだが、1629年に正式に国王の支援を受けて、グロ=ギヨーム率いる一座が「オテル・ド・ブルゴーニュ座王立劇団」と名乗ることを許され、3年契約でブルゴーニュ劇場を恒常的に使用できことになっ契約を締結した。1635年にグロ=ギヨームが亡くなった後は、ベルローズ率いる一座が王立劇団を受け継ぎ、1647年にはマレー座から引き抜かれてきたフロリドールが座長となって、1680年の[[コメディ・フランセーズ]]結成に至るまで、王立劇団と名乗り続けた。この劇団は国王から強力な庇護を獲得した上に、かなりの金額の年金も受けており、この劇団だけが公式の王立劇場、劇団と言える状況にあった<ref>Ibid. P.6,31</ref>。
 
=== [[コメディ・フランセーズ|国立劇場コメディ・フランセーズ]]創設 ===