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差分

ブルゴーニュ座の観劇料金は、平土間席なら5ソル、桟敷席なら10ソルと決まっていた。天井桟敷や階段席などもあって、全てを合わせればおよそ1500人ほど収容が可能であったが、そのほとんどは平土間席であった<ref>芝居とその観客 : 17世紀初期のパリにおける,P.8、10,戸口民也,フランス文学論集 (11), 8-15, 1976-11-23,日本フランス語フランス文学会</ref>。
 
ところが、料金をまともに払わず平気で無料入場をするような連中も数多くいた。平土間席は学生、職人、小姓、従僕、軍人など、いずれも行儀のよくない面倒な連中ばかりで占領されており、スリや追剥ぎ、泥棒、娼婦などが相手を探してうろついている有様だった。この連中はあちこちで博打を打つし、勝手に物を食っている者もいれば、大きな声で怒鳴り散らしたり、喧嘩、決闘、殺し合いを始めだす者もいる。とにかく厄介な連中であった。この時代の照明と言えばオイルランプ、ろうそく程度のもので、しかもこれらは結構値段が張るためにかなり控えめに使われていた。そのため劇場内はとにかく暗く、前の席にいなければ満足に役者の姿さえ見られない。照明がこのような状況だから、スリや泥棒大活躍できたのであった<ref>Ibid. P.8-10</ref>。
 
桟敷席は主に貴族が中心となって座っていた席であったが、[[ランブイエ侯爵夫人]]が宮廷のあまりの品の悪さに失望して、そこからサロンが生まれたことからもわかるように、当時の貴族と言ってもは大変に品の悪い連中で、こちらも平土間席と同じようなものだった。品行の面では市民と変わらないくせに、あまつさえ、彼らは貴族という特権を振りかざし、「料金を払うのは下賤の輩のすること」などと考えていたためにので、こちらも料金など払うつもりは最初からないのであった。このような悪習は根強く残っていたようで、17世紀後半、1684年になっても「資格身分を問わず、無料で劇場に入場することを厳禁する」旨の勅命が出されており、この後も繰り返し発せられている。1684年と言えば、ルイ14世によって絶対王政が完成されて久しい頃だが、それでもこのような常識的な勅命が下されているところを見ると、[[ユグノー戦争]]の傷跡が生々しく残っていた17世紀初頭のフランス混乱期の人々の風俗、品行など推して知るべしである<ref>Ibid. P.10</ref><ref>ヨーロッパの社交に関する考察 -社交的事象の場所論1-,呉谷充利,P.54</ref>。
 
ところが、観客が品行下劣なら、その舞台に立つ役者たちも同じようなもので、世間の目は決して好意的ではなかった。タルマン・デ・レオーによるこの時代の俳優に関する評が残っているが、それによればこの時代の役者はほとんど素行は悪く、夫妻揃って性的に放縦であり、特に女たちは男なら誰彼構わず相手にし、他の劇団の役者とさえ関係を持つことさえあったという。もちろんこの時代にも、ゴーチエ=ガルギーユのようにまじめな生活を送った役者も居たには違いないが、しかし宮廷や貴族も先述したように品行下劣であったのだから、何も乱れ切っていたのは役者たちだけではなかった<ref>戸口 P.9</ref>。
 
このように碌でもない連中ばかりが集まる場所であったのだから、オテル・ド・ブルゴーニュ劇場が「悪の巣窟」などと言われたのも無理もないことであった。こうした評判に影響されて、芝居に興味のない人々が、役者に厳しい目を向けるようになるなど、悪循環に嵌まり込んでいたのである<ref>戸口 P.11</ref>。
 
== 歴史 ==