「ヤーセル・アラファート」の版間の差分

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=== パレスチナ解放運動 ===
1956年に[[スエズ危機]]が起こると[[エジプト]]軍に入り、[[第二次中東戦争]]に工兵大尉として従軍。戦後は[[クウェート]]で技師として働きながらパレスチナ解放運動を続け、後のPLO主流派となる[[ファタハ]]を結成。[[1963年]]に[[シリア]]に迎えられ、イスラエルに対する武装闘争に入ってファタハをパレスチナ解放運動の主流勢力に成長させた。のちにファタハがパレスチナ解放機構 (PLO) に加入すると、アラファートは[[エジプト]]の[[ガマール・アブドゥル=ナーセル|ナセル大統領]]から「パレスチナのリーダー」というお墨付きを得て<ref>Aburish, Said K. (2004). Nasser, The Last Arab. New York: Thomas Dunne Books. ISBN 978-0-312-28683-5. OCLC 52766217.</ref>[[[[1969年]]その議長に就任し、パレスチナ解放運動の指導者に立つ。
 
=== ヨルダンへ ===
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翌[[1970年]]、PLOによる[[テロリズム|テロ]]がヨルダンを巻き込んで国際的に行われるようになると、このことがパレスチナ難民の不安定化によるヨルダン情勢の悪化を恐れる[[フセイン1世]]国王の逆鱗に触れ、フセイン国王は[[9月14日]]に戒厳令を敷いて国王親衛隊の[[ベドウィン]](アラブ遊牧民)部隊を投入、PLOを攻撃した([[ヨルダン内戦|ブラック・セプテンバー事件]])。
 
アラファートはこの事件によってヨルダンから追放されるものの、今度は[[レバノン]]の首都[[ベイルート]]に移って[[1970年代]]を通じてイスラエルに対する武装闘争を続け、この時期の[[第四次中東戦争]]を契機とするアラブ諸国とイスラム諸国の結束の機運に乗じて、[[1974年]]の[[モロッコ]]の[[ラバト]]で開かれた[[アラブ連盟]]首脳会議で満場一致でPLOは「パレスチナ唯一の代表」となり、同年には[[パキスタン]]の[[ラホール]]の[[イスラム諸国会議機構]]首脳会議でアラファート議長は演説して全会一致の支持を受け、さらにPLOは[[国際連合総会オブザーバー]]資格を手に入れて[[国連本部]]でも演説を行った。しかし、[[1982年]]の[[レバノン内戦|レバノン戦争]](イスラエル軍のレバノン侵攻)の結果ベイルートを追放され、武装闘争の根拠地を失った。[[1990年]]の[[湾岸戦争]]では[[イラク]]の[[サッダーム・フセイン]]を支持して、結果[[クウェート]]や[[サウジアラビア]]からの支援を打ち切られて苦境に立った。
 
=== 方向転換 ===