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'''宮崎 民蔵'''(みやざき たみぞう、[[慶応]]元年[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]([[1865年]][[6月13日]]) - [[昭和]]3年([[1928年]])[[7月15日]])は、[[明治]]・[[大正]]期の[[社会運動家]]。号は'''巡耕'''
 
== 略歴 ==
[[肥後国]][[玉名郡]]荒尾村(現[[熊本県]][[荒尾市]])出身。兄の[[宮崎八郎|八郎]]、弟の[[宮崎弥蔵|弥蔵]]・[[宮崎滔天|寅蔵]]([[宮崎滔天|滔天]])とともに「'''民権兄弟'''」として知られる(特に民蔵・弥蔵・寅蔵を「宮崎三兄弟」と呼ぶこともある)。
 
[[宮崎政賢]]・左喜夫妻の6男に生まれるが、兄・八郎が[[西南戦争]]で戦死し、他の兄も既に没していたため、[[1879年]]に民蔵が宮崎家の当主となる。八郎と同様に[[自由民権運動]]の影響を受けて上京し、[[中江兆民]]の仏学塾に入ったものの病気のために帰郷する。その後、[[小作人]]問題に関心を抱き、[[1888年]]頃から土地も天が作ったものである以上、全ての人間が均分して受ける権利があると考えるようになる。欧米遊学後に[[1901年]]に一時荒尾村長を務めるが、[[1902年]]に東京で[[土地復権同志会]]を組織して「平均地権」を唱えて、[[1905年]]に主著『土地均享・人類の大権』を執筆する。民蔵の活動は[[頭山満]]や[[幸徳秋水]]など左右を問わずに支持を受けるが、その思想が[[私有財産制]]の否定につながるとみた政府から警戒されて運動は困難を窮めた。
 
[[1910年]]の[[幸徳事件|大逆事件]]の際には[[大韓帝国|韓国]]訪問中であったものの、同事件で処刑された[[松尾卯一太]]が宮崎家の遠縁であったために関与が疑われて取調を受けた。この影響で政府の弾圧を受けて会は解散に追い込まれる。その一方で、弟の弥蔵・滔天とともに[[孫文]]の革命運動を支援し、2人の没後も最後まで孫文の支援者として活動した。孫文の[[三民主義]]の1つ「民生主義」の中に“地権平均”が登場した背景には、孫文が民蔵と交わした土地論争がきっかけとなったとする説がある(その後、[[中国同盟会]]の機関誌『民報』に民蔵も論文を寄稿している)。[[辛亥革命]]の際には自ら孫文の元に駆けつけて物心両面の支援を行っている。また、革命資金捻出のために中国国内で事業活動も行っているが、こちらは成功しなかった。孫文の死の床を見舞った数少ない日本人のうちの1人である。
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*妻・ミイ - [[柳川藩]][[家老]]の立花家の次女として三池村(現・[[大牟田市]])に生まれ、兄の小一郎が民蔵が学んだ銀水義塾の塾長をしていた縁で民蔵に嫁ぐ。留守がちな民蔵に代わって、小商いをするなどして宮崎家を切り盛りし、滔天の妻・[[宮崎槌]]とともに民蔵らの活動を支えた<ref name=miyazaki>[http://www.city.arao.lg.jp/seika/kihon/pub/detail.aspx?c_id=119&id=933&pg=1 宮崎家の女性たち]宮崎兄弟資料館</ref>。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*上村希美雄「宮崎弥蔵」(『国史大辞典 13』(吉川弘文館、1992年) ISBN ISBN 4-642-00513-7)
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== 外部リンク ==
*[http://www.city.arao.lg.jp/seika/ 荒尾市宮崎兄弟資料館]
== 脚注 ==
 
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