「オテル・ド・ブルゴーニュ座」の版間の差分

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* '''ベルローズ''' (''Bellerose''、本名:''Pierre Le Messier''、在任期間:1635~1647年)
役者としてのデビューは、ヴァルラン・ル・コント座で、同劇団でしばらく修業を積んだらしい。ヴァルラン・ル・コントの死後、一座の座長に昇格し、1620年には[[アレクサンドル・アルディ]]を座付き作家とする契約を交わしている。1622年にはグロ=ギヨームが座長を務めるオテル・ド・ブルゴーニュ座王立劇団に正式に加入し、彼の死後、こちらでも座長となった。彼の座長としての能力は卓越しており、アルディ、[[ジャン・ロトルー]]、[[ジャン・メレ]]ら新進作家らの作品を上演できるように仕向け、見事に成功している。1647年にマレー座から移籍してきたフロリドールに座長職を譲ったが、死ぬまでこの劇団に在籍し続けた。同年、ベルローズの努力が実を結び、劇団はコルネイユの作品の上演権を獲得した。彼自身もコルネイユの悲劇で主役を演じ、その優雅な姿で人気を獲得して、フランス最初の偉大な悲劇役者とまで言われるようになった。こうした劇作家たち時の悲劇を演じた経験が活きて、後々ラシーヌの悲劇上演するようも活きることとり、った。オテル・ド・ブルゴーニュ座が悲団は大成功収めている。得意とし出したのは彼が座長であった頃からだが、これはベルローズがかなりの策士で、悲劇の上演権を次々と獲得していったからかもしれないし、単に悲劇役者を集める才能に長けていたからかもしれない<ref>Ibid. P.34-5</ref>。
 
* '''フロリドール''' (''Floridor''、本名:''Josias de Soulas''、在任期間:1647~1671年)
牧師の息子で、正当な貴族の家に育った。はじめ軍人であったが、やがて役者に転じた。1638年初めにマレー座に入り、同時に一座に加入し、後に座長となった。コルネイユ作品で重要な役を演じて人気を獲得し、中心的な存在の役者にまでなった。1647年、その人気にあやかろうとしたのか、王令によるものであったとも言われるが、マレー座から引き抜かれてコルネイユの作品上演権付きでオテル・ド・ブルゴーニュ座へ移籍し、座長に就任した。ブルゴーニュ座ではコルネイユはもちろん、ラシーヌ悲劇の大役も演じるなど、生涯舞台に立った役者であったが、1671年に公演を終えて数日後に逝去した。堂々として魅力的なその姿、才能、演技で観客の注目を集め続けた。17世紀当時、もっとも尊敬された役者であり、2つの劇団の運営にトップとして関わり、両方とも成功させていることから、座長としての能力も当代随一であったと言われる。国王も彼に惜しみない寵愛を注いでおり、役者の身分であっても貴族の特権を失わないとする裁決を例外的に承認しているほどであった<ref>Ibid. P.45-6</ref>。
 
=== 中心役者 ===