「格物致知」の版間の差分

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'''格物致知'''(かくぶつちち)とは、[[古代]][[中国]]における[[思想史]]上の[[術語]]。'''格致'''(かくち)と略される。『[[礼記]]』大学篇(『[[大学 (書物)|大学]]』)の一節「致知在格物、物格而知至」に由来し、[[儒学]]史上、さまざまな解釈がなされた。[[宋代]]以降の儒教([[宋学]])において「[[窮理]]」(『[[易]]』説卦伝に由来)と結びつけられ、事物の道理を追究することとして重要視された。
 
[[唐]]までの伝統的な解釈である[[後漢]]の[[鄭玄]]注では「格」を「」、「物」を「事」、「致」を「至」と解し、善や悪を深く知ることが善いことや悪いことを来させる原因になるとしていた。しかし、この時代、この一文はそれほど注目されたものではなかった。重視されるようになったのは[[程頤]]が格物を窮理と結びつけて解釈してからである。彼は自己の知を発揮しようとするならば、物に即してその[[理]]を窮めてゆくことと解釈し、そうすることによって「脱然貫通」すると述べた。[[南宋]]の[[朱熹]]はその解釈を継承し、『大学』には格物致知を解説する部分があったとして『格物補伝』を作った。ここで格は「至(いたる)」、物は「事」とされ、事物に触れ理を窮めていくことであるが、そこには[[読書]]も含められた。そして彼はこの格物窮理と[[居敬]]を「聖人学んで至るべし」という[[聖人]]に至るための方法論とした。この時代、[[経書]]を学び、[[科挙]]に合格することによって[[官僚]]となった[[士大夫]]に対し、格物致知はその理論的根拠を提供した形である。しかし、格物は単に読書だけでなく事物の観察研究を広く含めたため、後に格物や格致という言葉は今でいう[[博物学]]を意味するようになった。近代になり、西洋から[[自然科学]]を導入するに際して格物や格致が使われたのもこのためである(ちなみに日本では窮理から理科や理学の語を当てたと考えられる)。
 
一方、[[明代]]中葉の王守仁([[王陽明]])は、「格物」は外在的な物に至るというものではなく、格を「正(ただす)」として、自己の心に内在する事物を修正していくこととし、「致知」とは先天的な道徳知である良知を遮られることなく発揮する「[[致良知]]」だとした。ここで格物致知は自己の心を凝視する内省的なものとされた。また[[清]]初の[[顔元]]は「格物」を「犯手実做其事」(手を動かしてその事を実際に行う)とし、そうすることによって後に知は至るとした。ここで格物致知は実践によって知を獲得していくこととされている。