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[[1559年]]にはサビエルの宿願だった[[京都]]での布教を果たすべく、満を持して[[ガスパル・ヴィレラ]]神父らを派遣した。トーレスの時代、戦国時代の相次ぐ戦乱は布教活動において大きなマイナスであった。畿内での宣教はやがて[[織田信長]]によって政治的安定がもたらされることで軌道にのることになるが、九州では依然続く戦乱と政治的不安定の影響でなかなか安定した活動が行えなかった。
 
日本地区の布教責任者として、各地を転々としての宣教に疲れ果てたトーレスは、1560年代のおわりにインドの上長に新しい布教長の派遣を依頼。これに答えて派遣され、[[1570年]]6月に[[天草諸島|天草]]に到着したのが[[フランシスコ・カブラル]]神父である。コスメ・デ・トーレス、[[1570年]][[10月2日]]([[元亀]]元年[[9月3日 (旧暦)|9月3日]])、天草志岐([[熊本県]][[天草郡]][[苓北町]])で死去。
 
トーレスが日本に来たとき、1人の信者もおらず、1つの教会もなかったが、彼の死去時には京都、[[堺市|堺]]、山口、豊後、[[博多]]、肥前などに多くの教会と多数のキリスト教徒が生まれていた。サビエルの夢を実現させたのは盟友トーレスであった。