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[[画像:Matsushiro_daihonei01.jpg|thumb|240px|象山地下壕内]]
[[画像:matsushiro2006_1111.jpg|thumb|240px|案内看板]]
'''松代大本営跡'''(まつしろだいほんえいあと)は、[[太平洋戦争]]末期、[[日本]](当時の[[大日本帝国|日本]]国家政府中枢機能移転のために[[長野県]][[埴科郡]][[松代町 (長野県)|松代町]](現在の[[長野市]][[松代町 (長野県)|松代地区]])などの山中(象山、舞鶴山、[[皆神山]]の3箇所)に掘られた[[地下]][[坑道]]跡である。
 
このうち現在、'''象山地下壕'''(ぞうざんちかごう)が一般公開(無料)されている(詳細は[[#大本営(地下壕)の公開|後述]])。
 
== 概要 ==
太平洋戦争以前より、海岸から近く広い[[関東平野]]の端にある[[東京]]は、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため[[本土決戦]]を想定し海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。太平洋戦争で[[1944年]]7月[[サイパンの戦い|サイパン陥落]]後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月[[東條内閣]]最後の閣議で、かねてから調査されていた長野松代への[[皇居]]、[[大本営]]、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。
 
初期の計画では、象山地下壕に政府機関、[[日本放送協会]]、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。しかし、皆神山の地盤脆く、舞鶴山地下壕に皇居大本営を移転する計画に変更される。舞鶴山にはコンクリート製の庁舎が外に造られた。また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。
 
そのうち中心となる地下坑道は松代町の象山、舞鶴山、[[皆神山]]の3箇所が掘削された。象山地下壕には政府、日本放送協会、中央電話局、舞鶴山地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現在の[[宮内庁]])として予定されていた建物が造られ現在も残っている。また皆神山地下壕には備蓄庫が予定された。
 
関連施設は善光寺平一帯に造られたため「一大遷都」計画であった。[[上高井郡]]須坂町([[須坂市]])鎌田山には送信施設、[[埴科郡]][[清野村 (長野県)|清野村]](現在の長野市)妻女山に受信施設、長野市[[茂菅]]の善光寺温泉および[[善光寺白馬電鉄|善白鉄道]]トンネルに皇族住居などが計画された。また長野市[[大豆島#松岡|松岡]]にあった[[長野飛行場]]が陸軍により拡張工事が行われている。
 
== 松代大本営建設に至るまでの皇居の防空対策 ==
[[皇居]]には[[1935年]]頃、鋼鉄扉の防空室地下金庫が作られた。だが、内部が狭く大型爆弾に耐えられないことから、宮内省工匠寮の設計で、[[吹上御苑|吹上御所]]近くに新たに防空壕を作ることになった。のちに[[御文庫]]と命名される大本営防空壕が完成するまでの間、[[昭和天皇]][[香淳皇后]]は空襲警報発令のたびに宝剣神璽([[三種の神器]]のうち剣と印)とともに皇居第2期庁舎の防空室に避難していた。
 
さらに[[1941年]][[4月12日]]御文庫が極秘に着工され、[[1942年]][[12月31日]]に完成した。施工を請負ったのは[[大林組]]建築費は約200万円であった。建坪1,320m<sup>2</sup>。地上1階、地下1階・2階の3階建て。そこには天皇・皇后の寝室、居間、書斎、応接室、皇族御休息所、食堂、洗面所、侍従室、女官室、風呂、トイレなどがあった。このほか、映写ホール、ピアノ、玉突き台などもあった。屋根は1トン爆弾に耐えるよう、コンクリート1mの上に砂1m、さらにその上にコンクリート1mを重ねた計3mの厚さであった。天皇は午前中は表御座所(御政務室)、午後は御文庫で過ごすのが日課であった。
 
戦況が悪化したため、[[1945年]]6月頃にさらに頑丈な[[御文庫附属室]]が御文庫から90m離れた地下10mに陸軍工兵部によって建設された。広さ330m<sup>2</sup>、56m<sup>2</sup>の会議室2つと2つの控室、通信機械室があり、床は板張り、各室とも厚さ約1mの鉄筋コンクリートの壁で仕切られていた。50トン爆弾にも耐えるよう設計され御文庫とは地下道で結ばれていた。この地下壕はのちの終戦時の2度の[[御前会議]]の場所となった。
 
== 松代が選ばれた理由 ==
大本営移動計画は後に終戦時の[[宮城事件]]に関わることになる[[陸軍省]]の[[井田正孝]][[少佐]]が1944年1月に発案し、[[富永恭次]]次官に計画書を提出、大本営幹部会の承認を経た後、[[鉄道省]]の現地調査が行われ、全国に地下施設の構築計画案が決まり、大本営の建設場所に松代が選定された。計画案の選定理由は以下のとおりである<ref>ミリタリークラシックス5巻第11号 イカロス出版 Jウイング8月号別冊 2003年8月</ref>。
# 本州の陸地の最も幅の広いところにあり、近くに飛行場(長野飛行場)がある。
# 固い岩盤で掘削に適し、10t爆弾にも耐える。
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# 長野県の人は心が純朴で秘密が守られる。
# 信州は神州に通じ、品格もある。
 
この案では松代に大本営、東京浅川に東部軍収容施設、愛知県小牧に中部軍収容施設、大阪府高槻に中部軍収容施設、福岡県山家に西部軍収容施設を建設するものであった。その後、この案は[[東條英機]]首相の日本政府全体の移動の意向により変更され、大規模化した。
 
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土地の買収は役場を通じて軍が行った。当時は[[養蚕]]が重要産業であったので桑畑は程度により買収金額が三段階に分かれていた。買い上げた土地のうち戦後に不要になったものは買い上げ価格の半値程度で払い下げられた(疎開補償費を元住民が半額返金した)。当該地区一帯500戸足らずのうち130戸が立ち退き対象となり、疎開は[[東部軍 (日本軍)|東部軍]]の指示により1945年4月から行われた。田畑の耕作は許可されていたため多くは付近の親戚や知人宅を頼った。大規模な移動が起こっていないように偽装するため、家、庭木、庭石などはそのまま、畳の持ち出しは3枚までに制限されていた。終戦後は漸次9月9日までに自宅に戻り、修理されていた家もあった<ref name=naniga13>西条地区を考える会 『松代でなにがあったか! 大本営建設、西条地区住民の証言』 竜鳳書房 2006年1月, p. 13 ”第一章 強制疎開と地下壕建設”. ISBN 978-4947697295</ref>。
 
[[1944年]][[11月11日]][[11時11分]]、象山にて最初の発破が行われ、工事が開始された。[[ダイナマイト]]で発破して、崩した石屑を[[トロッコ]]などを使った人海戦術で運び出すという方法で行われた。建設作業にあたっては徴用された日本人労働者および日本国内および[[朝鮮半島]]から動員された朝鮮人[[労務者]]が中心となった。工事は[[西松建設|西松組]]や[[鹿島建設|鹿島組]]が請け負った。[[満州国]]からの第4639部隊や、[[賢所]]工事には[[鉄道省]][[静岡隧道学校]]の若者も当たり、付近の住民は[[国民勤労報国協力令|勤労奉仕隊]]として[[ズリ]]などの運搬に、また当時の屋代中学、松代商業の生徒も陸軍工兵隊の指揮の下、運搬などに[[学徒動員]]され、[[国民学校]]初等科の生徒も運搬や山から採ってきた枝でズリを隠す作業等を行った<ref name=naniga13 />。勤労奉仕隊は無料だったが、朝鮮人労務者は賃金をもらっていた。総計で朝鮮人約7,000人と日本人約3,000人が当初8時間三交代、のち12時間二交替で工事に当たった。最盛期の1945年4月頃は日本人・朝鮮人1万人が作業に従事した。延べ人数では西松組鹿島組県土木部工事関係12万人、勤労奉仕隊7万9600人、西松組鹿島組関係15万7000人、朝鮮人労務者25万4000人、合計延べ61万0600人、総工費は6000万円<ref name=naniga131>吉田春男 ”松代大本営建設回顧録” 昭和39年2月 in 西条地区を考える会 『松代でなにがあったか! 大本営建設、西条地区住民の証言』 竜鳳書房 2006年1月, p. 131. ISBN 978-4947697295</ref>。当時の金額で2億円の工事費が投入されたとも伝わっている{{要出典|date=2010年2月}}。しかし、[[1945年]][[8月15日]]の敗戦[[ポツダム宣言|ポツダム宣言]]受諾発表により、進捗度75%の段階で工事は中止された。
 
昭和天皇の「神器を奉じて帝都を動かず」との考えによって、内廷皇族では[[皇太子]][[明仁|明仁親王]]([[今上天皇]])、[[常陸宮正仁親王|義宮]](常陸宮)、皇女以外は東京から疎開する気は無かったといわれる。しかし、6月中旬には宮内省の関係者([[小倉庫次]][[侍従]]、[[加藤進 (会計検査院長)|加藤進]]総務局長)が訪れ、[[内大臣]]の[[木戸幸一]]の日記([[木戸日記]])の1945年[[7月31日]]付けに信州に行くことの具体化を相談している記述があり、終戦直前には移動を本気で考えていたと思われる。
 
松代大本営建設作業にあたっては徴用された日本人労働者および日本国内および[[朝鮮半島]]から動員された朝鮮人[[労務者]]が中心となった。工事は[[西松建設|西松組]]や[[鹿島建設|鹿島組]]が請け負った。[[満州国]]からの第4639部隊や、[[賢所]]工事には[[鉄道省]][[静岡隧道学校]]の若者も当たり、付近の住民は[[国民勤労報国協力令|勤労奉仕隊]]として[[ズリ]]などの運搬に、また当時の屋代中学、松代商業の生徒も陸軍工兵隊の指揮の下、運搬などに[[学徒動員]]され、[[国民学校]]初等科の生徒も運搬や山から採ってきた枝でズリを隠す作業等を行った<ref name=naniga13 />。勤労奉仕隊は無料だったが、朝鮮人労務者は賃金をもらっていた。
 
当時飯場で賄いをしていた人からの証言では地下壕掘削のために働いていた朝鮮人労働者には1日に白米7合、壕外での資材運搬で働く朝鮮人労働者には白米3合が配給、他にそれぞれ麦やトウモロコシなどが配られるという破格の待遇<ref name=naniga20>大本営犠牲者追悼碑を守る会記者会見 ”松代大本営の朝鮮人労働者への食料配布は1日7合と判明”.</ref>であった。
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朝鮮人労務者は体が丈夫なせいかあまり風邪を引かず、規則正しく礼儀正しかったといわれる<ref name=naniga13 />。家族ぐるみで働きに来ている者もおり、子弟は日本人と一緒に学校に通った<ref name=naniga74>西条地区を考える会, 2006, p. 74 ”第二章 朝鮮の人々の思い出”.</ref>。松代住民と朝鮮人との仲は比較的良く、朝鮮人が農業を手伝ったり、西条地区の強制立ち退きも手伝った。また朝鮮人名で預金通帳をつくることができなかったため、松代住民が代わりに名前を貸したという。また日本人と朝鮮人の恋愛結婚もあった。朝鮮人労務者の食事事情は(密殺した)牛肉を食べるなど、国内での炭鉱や土木工事などに徴用された朝鮮人労務者と比較して待遇面では悪くはなかったようで、日本人よりも良好だった。終戦後、朝鮮半島出身の帰国希望者には列車、帰還船を用意し、一人当たり250円の帰国支度金が支払われ[[1945年]]の秋にはほとんど[[富山港]]から帰国させることができた。
 
なお、松代大本営は主に陸軍において計画・推進されたものであるが、さらに戦局が悪化した終戦直前になって、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合]]が南九州に上陸するとの想定のもと<ref group="注">実際に連合軍は1945年[[11月1日]]に南九州に上陸開始するという[[ダウンフォール作戦|オリンピック作戦]]を発動予定であった。</ref>、より作戦が取りやすいという理由などから、[[奈良県]][[天理市]]の一本松山付近に大本営と御座所を移すという計画が主に[[大日本帝国海軍|海軍]]により立てられ、実際に工事が進められていた。
{{Main|天理の大本営跡}}
 
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== 動座用車両 ==
天皇がもし松代へ動座(移動)する事態となったとき、鉄道では空襲等に対し危険であり、車では道路状態が悪く(当時は舗装道路が完備されていなかった)ため、安全性が高く機動力のある交通手段を考えねばならなかった。1944年の段階では天皇・皇后の動座のための装甲車が2台準備されていたが、居住性、走行性能共に高いものではなく、1945年には新たなものが新造されることになった。
 
新造された車両は天皇を守る近衛師団の騎兵連隊に送られ、赤芝師団長によりマルゴ車と名付けられた。[[貞明皇后|貞明皇太后]]と[[日光市|日光]]の[[田母沢御用邸]]に疎開していた[[皇太子]]([[今上天皇]])用も含めて4台、予備2台が制作された。
 
マルゴ車の他「特別運搬装甲車」とも呼ばれたこの車両は、従来の装甲車に比べ2まわりほど大きく、二重鋼板の装甲により小口径の速射砲弾程度なら跳ね返す強度を持ち、前輪はタイヤ、後輪は戦車と同じ[[無限軌道]]を持つ[[ハーフトラック]]構造であった。内部は前室に侍従武官の部屋、皇族の居室となる奥の部屋には天井にシャンデリア、床に絨毯、ソファやベッド用マットが置かれていた。固定武装は無いが、必要に応じて対空対地用の重機関銃が据え付けられるようになっており、スピードは時速40キロ程度、車体には黄色と緑の迷彩が施されていた。
 
1945年に入り東京への空襲が激しくなり、従来皇族の警護に当たっていた[[近衛師団]]騎兵連隊の軍馬を疎開させるようになったため、マルゴ車の護衛は戦車隊で行わなければならず、2両のマルゴ車の前後を13両の戦車で守り、本土決戦時には空から落下傘部隊に奇襲されて包囲されることを考え、攻撃を排して突破脱出する作戦も考えられていたという。移送訓練は連日秘密裏に行われ、機密を守るために主に夜間に行われていた。
 
マルゴ車は空襲から守るため保管場所を戸山ヶ原世田谷区砧の地下壕小石川区関口台町の横穴→芝芝の愛宕山トンネルと二転三転し、8月15日には近衛師団将校が宮内省前に並べたが、その後行方不明となった。
 
== 海軍壕 ==
本土決戦には反対であった海軍も、1945年6月大本営海軍部用の地下壕を建設することに決定した。当時、横須賀で飛行機の格納用の地下壕を建設中だった第300設営隊は6月海軍施設本部の命令により、長野に大本営海軍部用の地下壕を建設するため、設営隊の半分の500人を派遣した。設営隊長は山本将雄技術大尉であった
 
地下壕掘削の場所は、上水内郡安茂里小市(現在の長野市)で、長野市の中心部から西へ約3.5キロメートル、松代大本営からは約16キロメートルである。地下壕はおよそ1000人を収容できる規模のものが計画された。隊の将兵は近くの民家や寺院に寝泊まりして掘削に当たったが、その期間は短く、約100メートル掘って敗戦となった。現在、入り口は会社所有となり入れない。
 
== 慰安所 ==