「地動説」の版間の差分

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[[ティコ・ブラーエ]]は、恒星の年周視差が当時の望遠鏡では観測できなかったことから、地球は止まっているものとしたが、太陽は5つの惑星を従えて地球の周りを[[公転]]するという折衷案を唱えた。最初に地動説に賛同した職業天文学者は、コペルニクスの直接の弟子レティクスを除けば[[ヨハネス・ケプラー]]だった。ケプラーはブラーエの共同研究者であり(助手という記述もあるが、ケプラー自身は共同研究者として迎えられた、と主張しており、また、ブラーエ自身がケプラーに送って残っている書簡にも、助手として迎えるという文言はない)、ブラーエの膨大な観測記録から[[1597年]]、「宇宙の神秘」を公刊。コペルニクス説に完全に賛同すると主張してコペルニクスを擁護した。これらに追随する形で、[[ガリレオ・ガリレイ]]もまた地動説を唱えた。
 
ガリレオ・ガリレイは、地動説に有利な証拠を多く見つけた。代表的まず実験によって[[運動の第1法則|慣性の法則]]を発見し、これはアポロニウス、ヒッパルコス、プトレマイオスらが地動説を否定した根拠である、ぜ空を飛んでいる鳥は地球自転に取り残されないのか、なぜまっすぐ上に投げ上げた石地球の自転に取り残されずに元の位置に落ちてくるのかを、合理的に説明するものであった。そして実際の天体観測において、[[木星]]の[[衛星]]で、この発見はも地球が動くなら[[月]]は取り残されてしまうだろうという地動説への反論を無効にするものだった。また、ガリレオは[[金星]]の満ち欠けも観測。これは、[[地球]]と[[金星]]の距離が変化していることを示すものだった。またガリレオは[[太陽]]黒点も観測。太陽もまた[[自転]]していることを示した。ガリレオはこれらを論文で発表した。これらはすべて、地動説に有利な証拠となった。ガリレオは潮の干満も地動説の証拠と思っていたが、後に潮の干満は月の引力によるものだとして、否定された。
 
== ガリレオ裁判 ==