「来目皇子」の版間の差分

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== 略歴 ==
推古天皇10年([[602年]])2月、[[任那]]を滅ぼした[[新羅]]に対する[[新羅征討計画]]の際、[[新羅]]征討[[将軍]]として軍二万五千を授けられる。4月に軍を率いて[[筑紫国]]に至り、[[志摩郡 (福岡県)|島郡]]に屯営したが、6月に[[病気|病]]を得て新羅への進軍を延期とした。征討を果たせぬまま、翌年([[603年]])2月4日、筑紫にて薨去。[[周防国|周防]]の[[佐波郡 (山口県)|娑婆]](遺称地は[[山口県]][[防府市]]桑山)に[[殯]]し、[[土師猪手]]がこれを管掌した。
 
[[河内国]]埴生山(はにゅうのやま)岡上に葬られた。現在、同墓は[[大阪府]][[羽曳野市]]はびきの3丁目の[[塚穴古墳]]([[方墳]]・一辺約50m)に比定され、[[宮内庁]]の管理下にある。