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{{基礎情報 武士
'''渡辺 了'''(わたなべ さとる、[[永禄]]5年([[1562年]]) - [[寛永]]17年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]([[1640年]][[9月9日]]))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]。通称は勘兵衛(かんべえ)で、'''渡辺勘兵衛'''の名で知られる。名ははじめ「吉光」と伝わる。号は睡庵(水庵)。[[渡辺右京]]の子。子に[[渡辺宗]]。
| 氏名 = 渡辺了 / 渡辺 勘兵衛
| 画像 =Watanabe Kanbei.jpg
| 画像サイズ =230px
| 画像説明 = 太平記三十六番相撲:第三之番ヒ「渡辺勘兵衛」([[落合芳幾]]作)
| 時代 =[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]-[[江戸時代]]初期
| 生誕 =[[永禄]]5年([[1562年]])
| 死没 =[[寛永]]17年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]([[1640年]][[9月9日]])
| 改名 =
| 別名 =吉光、睡庵
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =[[誓願寺]]
| 官位 =
| 幕府 =
| 主君 =[[阿閉貞征]]→[[羽柴秀勝]]→[[中村一氏]]→[[増田長盛]]→[[藤堂高虎]]
| 藩 =
| 氏族 =
| 父母 =渡辺右京
| 兄弟 =[[渡辺了|了]]
| 妻 =阿閉貞征の娘
| 子 =[[渡辺宗|宗]]
| 特記事項 =
}}
'''渡辺 了'''(わたなべ さとる、[[永禄]]5年([[1562年]]) - [[寛永]]17年[[7月24日 (旧暦)|7月24日]]([[1640年]][[9月9日]]))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]。[[仮名 (通称)|通称]]は勘兵衛(かんべえ)で、'''渡辺 勘兵衛'''の名で知られる。名ははじめ「吉光」と伝わる。号は睡庵(水庵)。[[渡辺右京]]の子。子に[[渡辺宗]]。
 
== 生涯 ==
永禄5年(1562年)、[[近江国]][[浅井郡]]の土豪・渡辺右京の子として誕生。のちに同族の[[渡辺任]]の養子となったといわれる。
 
はじめ[[浅井氏]]麾下の[[阿閉貞征]]に仕え、貞征の娘を妻とした。「'''槍の勘兵衛'''」と称される槍の名手であり、[[摂津国]][[吹田城]]攻めで一番首を挙げ、[[織田信長]]から直接称賛されたほどで、阿閉家の精鋭である母衣衆の一人であった。後に辞して[[天正]]10年([[1582年]])ごろより[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に仕え、2,000石の扶持をもって、秀吉の養子である[[羽柴秀勝]]付きとなった。[[山崎の戦い]]や[[賤ヶ岳の戦い]]でも活躍し、[[石田三成]]家臣の[[杉江勘兵衛]]、[[田中吉政]]家臣の[[辻重勝|辻勘兵衛]]と並んで「三勘兵衛」と評されたものの、天正13年([[1585年]])に秀勝が死去すると、それに伴い浪人するした
 
次に[[中村一氏]]に3,000石で仕える。天正18年([[1590年]])の[[豊臣氏]]による[[小田原征伐]]において中村勢の先鋒として働き、伊豆山中城攻めにおいて一番乗りを果たした。秀吉から「捨てても1万石は取るべき」と賞賛されが、一氏からの恩賞(倍の6,000石)に不満を持ち、再び浪人する。続けて[[増田長盛]]に4,000石で仕える。[[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]で西軍についた長盛の出陣中に、居城の[[郡山城 (大和国)|郡山城]]を任された。戦後、既に長盛が所領を没収されて[[高野山]]に蟄居ていたにも関わらず、「主君長盛からの命で城を守っている。それ以外の命によって開城はできない」と、城接収の[[藤堂高虎]]、[[本多正純]]らにあくまで抵抗した。その後、[[徳川家康]]らによって長盛に書状を書かせるまで城を守り通し、無事に開城もすませた。
 
その後、[[増田長盛]]に初め客将として招かれ、次いで4,000石で仕えた。[[慶長]]5年([[1600年]])、[[関ヶ原の戦い]]で西軍についた長盛の出陣中に、居城の[[郡山城 (大和国)|郡山城]]を任された。戦後、既に長盛が所領を没収されて[[高野山]]に蟄居していたにも関わらず、「主君長盛からの命で城を守っている。それ以外の命によって開城はできない」と、城接収役の[[藤堂高虎]]、[[本多正純]]らにあくまで抵抗した。その後、[[徳川家康]]らによって長盛に書状を書かせるまで城を守り通し、無事に開城もすませた。

その忠義と力量に仕官の誘いが相次いだが、同郷の藤堂高虎に2万石の破格の待遇で仕えた。新たに高虎の居城となった[[伊予国]]の[[今治城]]の普請奉行を務めるなど、槍働き以外の才能を見せ、その後藤堂氏が[[伊勢国]]に移封となると、[[上野城]][[城代]]にまでなった。[[大坂の陣]]では藤堂勢の先鋒を務めるが、冬の陣にて戦い方をめぐり主君・高虎と衝突。谷町口の攻防戦において[[長宗我部盛親]]の部隊に蹴散らされて、落馬して負傷するなど大敗してしまう。夏の陣の八尾の戦いにおいては名誉挽回とばかりに再び長宗我部盛親・[[増田盛次]]の部隊に襲い掛かり300余人を討ち取る活躍をした。しかし、この活躍も独断専行甚だしく、7回にも及ぶ撤退命令を無視して追撃して得たもので、戦いには勝ったものの損害もまた大きく、高虎や他の重臣たちから疎まれる原因となった。そのため戦後出奔して再び浪人となった。
 
再び仕官の道を探すものの、藤堂氏から[[奉公構]](仕官を他の家にさせないようにする願い)の触れが出ており、[[江戸幕府]]などからも誘われるものの、適うことはなかった。[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])に[[土井利勝]]を通じて高虎に奉公構を解除するように願い出たが、高虎は「奉公したければ(姻戚関係のある)会津の[[蒲生氏|蒲生家]]か讃岐の[[生駒氏|生駒家]]に仕えよ」と命じ、これを彼は承知しなかった。寛永5年([[1628年]])には[[天海]]を仲裁役にして奉公構の解除を願ったが、藤堂家から出された一方的な和解の条件に承知せず、逆に高虎への不平不満を申し立てたため、交渉は決裂した。高虎の死後も、子の[[藤堂高次]]が引き続き奉公構の方針を維持したため仕官はかなわず、その才を惜しんだ[[細川忠興]]や[[徳川義直]]らの捨扶持を細々と受けながら、「睡庵」と称した。
 
寛永17年(1640年)、京にて死去。 墓所は[[誓願寺]]。
 
==関連作品==
*;小説
:[[司馬遼太郎]]:「侍大将の胸毛」(中公文庫「一夜官女」(書籍情報:ISBN 4-12-202311-4))に収録。
:[[池波正太郎]]:「戦国幻想曲」(新潮文庫(書籍情報:ISBN 4-10-115684-0))
 
== 参考文献 ==
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*[[渡辺氏]]
*[[渡辺勘兵衛 (石田家臣)]]
==関連==
*小説
:[[司馬遼太郎]]:「侍大将の胸毛」(中公文庫「一夜官女」(書籍情報:ISBN 4-12-202311-4))に収録。
:[[池波正太郎]]:「戦国幻想曲」(新潮文庫(書籍情報:ISBN 4-10-115684-0))
 
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