「田山幸憲」の版間の差分

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特に出展がないものは『田山幸憲のパチプロ日記』<ref>パチンコ必勝ガイド誌面におけるタイトル。単行本では「パチプロ日記」となる。</ref>から出典を得ている。
 
[[東京都立小石川高等学校]]在学時に読んだ「[[白鯨]]」をきっかけに船乗りを目指すが、[[海員学校]]の規定する視力に満たなかったため挫折。1年間の浪人生活後に[[東京大学]]入学。この大学在学時、友人に誘われ一時期[[東大紛争]]に参加したこともあった。在学中にパチプロとして活動し5年間在籍した東大を自主退学し後に東大中退の異例の経歴を持つパチプロとして知られる事になる<ref>うち一年は[[東大紛争]]による入試中止を受け学徒全員留年。</ref>。また大学在学中、友人に誘われ一時期[[東大紛争]]に参加したこともあった。『[[パチンコ必勝ガイド]]』創刊号より「田山幸憲のパチプロ日記」を寄稿する。パチプロ日記などで掲載された田山の信条として「10回パチンコに行ったら9回は勝って、一度は負ける位の愛嬌が必要(9割必勝法)」「パチンコでその日の酒代だけ稼げればよい」「一緒に酒を飲まないやつは信用しない(酒を飲むと本音が出ると考えているため)」などがある。また競輪にも詳しく<ref>『[[けいりんマガジン]]』(白夜書房)で一時期「田山幸憲のケイリン日記」を連載していた。</ref>原稿料やパチンコの収支を競輪に費やしたという。パチプロ日記を題材にした漫画(パチプロ日記before)の中では自分の育った家まで売ってしまって、一人泣きながら、心の中で苦労かけどおしの母に謝る描写がある。田山自身もパチプロになりたいという若者に、辞めて真っ当な人生を歩んだ方が良いとパチプロ日記の中ではっきりと言っていることから、パチプロを職業とする見方には否定的である。
 
2001年7月4日、[[舌癌]]による[[心不全]]で死去。7月4日は晩年田山が好んで打っていたパチンコ機『[[ナナシー]]』([[豊丸産業]])とも読め、葬儀が執り行われた7月7日は「7のゾロ目」でそれぞれパチンコに通ずるものとなった。パチプロ日記はハネ物タイプでのVゾーン入賞を「食い付く」などと記す独特の書き回しや、文章からにじみ出るパチンコへのこだわりの人物像が人気だった。パチンコ雑誌ライターのパイオニア的存在ともいえる。「あにはからんや」「ケも無し」「してやったり!」「シメシメルック」「目くるめく…」などの口癖が誌上で有名になる。