「シビーユ (エルサレム女王)」の版間の差分

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シビーユは祖母メリザンドの妹にあたる修道尼に引き取られ、女子[[修道院]]で育てられた。しかし、弟のボードゥアン4世が[[ハンセン病]]で子供が作れないことが明確になると、推定王位継承者として夫選びが始まり、[[1176年]]に[[ギヨーム (モンフェラート侯)|モンフェラート侯ギヨーム]]と結婚したが、翌年ギヨームが妊娠したシビーユ(この時身ごもっていたのが後の[[ボードゥアン5世 (エルサレム王)|ボードゥアン5世]])を残して亡くなると後継争いは再び混沌とし、新来[[十字軍]]士を中心とする宮廷派と在地諸侯を中心とする貴族派の勢力争いに巻き込まれることになる。
 
[[1177年]]に[[フランドル伯]][[フィリップ (フランドル伯)|フィリップ]]がエルサレムに到着し、彼の臣下とシビーユの結婚及び彼の摂政権を要求したが、[[ボードゥアン・ド・イベリディブラン]]を始めとする在地諸侯の反対により断念している。
 
[[ギヨーム・ド・ティール]]の年代記によると、[[1179年]]ごろシビーユとボードゥアン・ド・イベリディブランは恋仲であり、ボードゥアンが[[サラディン]]の捕虜になっている時も手紙のやり取りをしており、ボードゥアンが解放された後、結婚するつもりだったと言う。しかし、母のアニエスは、貴族派のボードゥアンを嫌い、自分の愛人であったエメリーの弟で宮廷派のギー・ド・リュジニャンと結婚させたとし、また、シビーユも移り気な性格ですぐにギーに乗り換えたとしている。
 
しかし、ギヨーム・ド・ティールはエルサレム総大司教座などをめぐって政治的に宮廷派と対立しており、またギヨームの死後、年代記を整理・加筆したのが、[[イベリブラン家]]の関係者であるため、宮廷派に関する記述はあまり信用できないと考えられている。
 
現実的なところでは、[[ブルゴーニュ公一覧|ブルゴーニュ公]][[ユーグ3世 (ブルゴーニュ公)|ユーグ3世]]に断られた後、[[トリポリ伯国|トリポリ伯]][[レーモン3世]]と[[アンティオキア公国|アンティオキア公]][[ボエモン3世 (アンティオキア公)|ボエモン3世]]はボードゥアン・ド・イベリディブランを推したが、ヨーロッパからの援助を期待していたボードゥアン4世が、[[プランタジネット朝]]の臣下だった[[リュジニャン家]]を選んだと考えられる。シビーユとギーとの間には2人の娘が生まれている。
 
ボードゥアン4世は、[[1180年]]にギーを摂政に任命したが、その能力に疑問を持ち、[[1183年]]にシビーユ夫妻の継承権を奪って5歳のボードゥアン5世を共同王にするとともに、ギーを摂政から解任し代わりにレーモン3世を摂政とした。
ギーは強硬派の[[ルノー・ド・シャティヨン]]と組み、[[1187年]][[7月4日]]の[[ハッティンの戦い]]で大敗し、自らは捕虜となっている。
 
エルサレムに残っていたシビーユはバリアン・ド・イベリディブランに防衛を委ね、開城が決まると娘達と[[トリポリ (レバノン)|トリポリ]]に移った。[[1188年]]にギーが解放されると、共に[[ティルス|ティール]]に向かったが[[コンラート1世 (モンフェラート侯)|モンフェラート侯コンラッド]]に入城を拒否されたため、王国の残党を集めて[[アッコン]]の攻略を開始した。アッコン包囲中にシビーユと2人の娘は病気で亡くなっている。シビーユの死により貴族派はイザベルを女王に推戴したが、ギーは[[1192年]]まで王位を主張した。
 
== 備考 ==
*映画「[[キングダム・オブ・ヘブン]]」(Kingdom of Heaven、[[2005年]])では、バリアン・ド(オブ・イベリン(ディブラン)との関係が描かれているが、これはギヨーム・ド・ティールの年代記のボードゥアン・ド・イベリディブランとの関係をモデルにしていると思われる。
 
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