「立花鑑寿」の版間の差分

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| 幕府 =
| 主君 =
| 藩 = [[筑後国|筑後]][[柳河藩]]主
| 氏族 = [[立花氏]]
| 父母 = 父:[[立花鑑通]]、養父:''[[立花通堅]]''
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| 特記事項 =
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'''立花 鑑寿'''(たちばな あきひさ)は、[[筑後国|筑後]][[柳河藩]]の第8代藩主。
 
第7代藩主・[[立花鑑通]]の五男。母は側室後藤氏または尚賢院(伊弥子・商家中村氏の娘)。正室は[[立花致真]](よしざね)<ref>第5代藩主・[[立花貞俶]]の六男。柳川藩一門家の一つ立花監物家を継ぎ、通称として監物を名乗る。7代目の藩主となった兄の鑑通が初め「鑑致」と名乗っていた間にその1字を賜い、致真と名乗る。</ref>の娘・美勢子(天寿院。従姉妹にあたる)。子女は[[立花寿俶|寿俶]](次男)、娘([[立花鑑賢]]正室)、娘([[京極高朗]]正室のち[[大久保忠保]]継室のち[[安藤信義]]継室)ら2男3女。
 
[[幼名]]は常之進、通称は図書。[[諱]]は、初め父・鑑通の1字を受け'''通尹'''(なおただ)、藩主就任時に(それまでの藩主が代々[[通字]]の「鑑」を使用していたのに倣い)'''鑑寿'''と名乗る。
 
== 生涯 ==
[[明和]]6年[[3月25日 (旧暦)|3月25日]]([[1769年]][[5月1日]])出生。母は「[[寛政重修諸家譜]]」では側室後藤氏ということになっているが、「三百藩藩主人名辞典」では尚賢院(伊弥子・商家中村氏の娘)。
 
はじめ叔父で家臣となった[[立花通堅]](兵部、5代藩主・[[立花貞俶|貞俶]]の十男)の養子となっていたが、[[寛政]]5年([[1793年]])8月に兄で嫡子だった[[立花鑑一|鑑一]]が父に先立って[[江戸]]で死去し、もう一人の兄である[[立花通厚|通厚]]が嗣子になることを辞退したために嗣子に選ばれた。そして寛政9年(1797年)閏7月22日、父の隠居により藩主となる。藩主となると[[家老]]小野勘解由を信任し、小野が実権を握る。
 
これより先、家老で姉婿でもある[[立花寿賰]](内膳)と[[立花通栄|戸次通栄(織衛)]](後に立花氏を下賜)らが豪傑組を組織して藩政改革を行ったが、その厳罰主義と党派的画策に対して藩内で不満が表面化した。これを受けて小野は家老の立花内膳と戸次通栄(織衛)を解職し、さらに寺社奉行2名に蟄居、[[物頭]]戸次半ら11名に逼塞を命じている([[豪傑崩れ]])。しかしあまりにやりすぎたため、家中で反対意見も強く、同年末には早々と立花寿賰ら多くが復職した。