「党の指導性」の版間の差分
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=== 過去のイスラム社会主義国 ===
*{{Flagicon|SYR}} [[シリア|シリア・アラブ共和国]] - 1970年以降、[[
== 一党優位制 ==
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* {{Flagicon|DEU1935}} [[ドイツ国]]は[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)の一党独裁だったが、国家に対する党の位置づけは明確ではない。[[アドルフ・ヒトラー]]個人を党および[[民族共同体]]の指導者(フューラー、[[総統]])とした。1933年、ナチ党は政権獲得後に[[1933年3月ドイツ国会選挙|選挙]]を行い、その勝利を「ナチ党及びその指導者であるヒトラーが民族と[[ライヒ]]を指導する」体制が確立されたものと喧伝し、ヒトラーとナチ党が国家を指導すると主張した<ref>南、指導者-国家-憲法体制の構成、4p</ref>。1933年7月31日には「政党新設禁止法」によりナチ党を単独の政党とし、12月1日には「党と国家の統一を保障するための法律」が公布され、党と国家は一体のものであると定義されたが、1942年の「ナチス党の法的地位に関する指導者命令」でこの定義は削除されることになった<ref>南、指導者-国家-憲法体制の構成、7-11p</ref>。ただし、ナチス・ドイツ時代は法よりもフューラーの意思が重要視された時代であり、明確に党の指導性を認めた成文法制定や、憲法改正は行われなかった。このため[[マルティン・ボルマン]]は「ナチス党の地位は法律の規定によっては正しく把握しうるものではなかった」と評している<ref>南、指導者-国家-憲法体制の構成、11p</ref>。[[1933年11月ドイツ国会選挙|1933年11月の選挙]]からはナチ党に対する信任投票となり、36年、38年ともいずれも高率での信任を得、全議席をナチ党が占めている。以降、国家崩壊まで議会選挙は行われていない。
<!--* {{要出典範囲|date=2014年10月12日|{{Flagicon|JPN}} [[大日本帝国]]末期の1940年、すべての合法政党が解散し[[大政翼賛会]]に合流した。厳密には政党ではなく、[[治安警察法]]第3条に規定する「公事結社」とされる。翼賛会を[[幕府]]になぞらえる批判も朝野に根強かったため、当初意図されたような指導的役割を担う存在にはならなかった。1942年の[[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]]では翼賛政治体制協議会からの推薦のない候補に対して官憲からの圧迫が加えられ、当選者の大多数は推薦候補であったが、当選者の2割弱を非推薦候補が占めている。1945年の敗戦にともない解散}}。これが「一政党の支配力が強く、選挙による政権交代の見込みが少ない体制」である出典要-->
*{{Flagicon|IRQ1991}} [[イラク|イラク共和国]] (1979-2003年、[[サッダーム・フセイン]]統治下) - 1963年以降、[[
== 議論 ==
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