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== 経歴 ==
[[414年]]([[嘉平 (南涼)|嘉平]]7年)、[[西秦]]の[[乞伏熾磐]]に南涼が滅ぼされると、破羌は[[北涼]]の[[沮渠蒙遜]]のもとに逃れた。まもなく北魏に亡命し、[[太武帝]]により西平侯の爵位を受け、龍驤将軍の号を加えられた。太武帝は[[禿髪氏]]と[[拓跋氏]]の源が同じであるとして、破羌に源氏の姓を与えた(ちなみに日本の[[源氏]]はこれに由来する)。[[434年]]([[延和 (北魏)|延和]]3年)、[[稽胡|山胡]]の白龍を討った。また吐京胡を討ち、先頭に立って勝利を収めた。平西将軍の号を受けた。
 
[[439年]]([[太延]]5年)、太武帝が北涼に侵攻すると、破羌は道案内をつとめた。北涼に与する四部鮮卑の招諭につとめ、3万戸あまりを帰順させた。魏軍が姑臧を包囲すると、破羌も包囲に参加して戦った。北涼が平定されると、破羌は征西将軍の号を受け、西平公に進んだ。[[柔然]]に遠征し、五城の吐京胡を討ち、蓋呉の諸賊を破るなど、戦功を挙げた。散騎常侍の位を受けた。[[450年]]([[太平真君]]11年)、太武帝の南征に従って前鋒大将となり、翌年には[[長江]]北岸まで進軍した。太武帝は破羌に賀の名を与えた。源賀は殿中尚書に任じられた。