「ROCKIN'ON JAPAN」の版間の差分

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初代編集長はロッキング・オン創始者の[[渋谷陽一]]。かねてから「邦楽雑誌を作るなら彼を表紙にする。」といい続けていた[[佐野元春]]が創刊号の表紙であった。
 
二代目編集長は[[山崎洋一郎]]。山崎が編集長を務めていた頃はバンドブームであり、編集長の山崎が[[フリッパーズギター]]、[[ニューエスト・モデル]]などのいわゆる硬派なアーティストを取り上げ、同時期に在籍していた[[市川哲史]]が[[X JAPAN|X]]や[[BUCK-TICK]]などの後に[[ビジュアル系]]と呼ばれるアーティストを取り上げており、誌面は両極端な2種類のアーティストのページの取り合いとなってしまった。そのため、ロッキング・オン・ジャパンはパチパチGBなどの当時の音楽雑誌の中ではマイナーな存在だった。まもなく市川はロッキング・オン社を退社し[[音楽と人]]を創刊。山崎の独裁体制となったロッキング・オン・ジャパンは1994年に判型をA5判に縮小し大リニューアルを行い、掲載アーティストを一気に絞った。リニューアルと同時のタイミングで起こった[[渋谷系]]ブームもあり、[[小沢健二]]、[[小山田圭吾|Cornelius]]、[[電気グルーヴ]]、[[ORIGINAL LOVE]]、[[スチャダラパー]]などを積極的に取り上げ、部数を伸ばす。またデビュー当時からプッシュを続けてきた[[エレファントカシマシ]]が1994年にレコード会社と契約を切られた上、所属事務所が解散してしまったときにはエレカシ復活のため一役かい、ブームのきっかけを作る。1990年代後半の[[ヴィジュアル系]]ブームを殆ど無視し、[[THE YELLOW MONKEY]]、[[thee michelle gun elephant]]、[[くるり]]、[[中村一義]]、[[SUPERCAR]]、[[ナンバーガール]]などを積極的に取り上げた。
 
2000年には山崎に代わり[[鹿野淳]]が三代目編集長に就任、2002年には月刊から月2回の発行となったが、売り上げの伸び悩みやスタッフの不足などでわずか1年で月刊に戻している(月2回の時期は鹿野と[[兵庫慎司]]の2人体制)。またこの時期、以前までロッキング・オン・ジャパンの常連として登場していた[[浅井健一]]による編集長暴行事件が誌面上で報じられ、様々な議論を生んだ(詳細は[[浅井健一#ロッキング・オンとの確執]]の項を参照)
 
2004年に鹿野が退社、[[古河晋]]が四代目編集長に就任する。
 
2006年4月には[[山崎洋一郎]]が編集長に復帰。(2009年4月から2012年3月までは総編集長・山崎、編集長・古河によるW編集長体制。)
 
 
 
== 関連項目 ==
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[[Category:日本の音楽雑誌]]