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[[Image:Carl Wenzel Zajicek 025.jpg|thumb|220px|ケルントナートーア劇場(1830年)]]
'''コンラディン・クロイツァー'''('''Conradin Kreutzer'''、[[1780年]][[11月22日]]([[メスキルヒ]]([[ジークマリンゲン]]郊外)) - [[1849年]][[12月14日]]([[リガ]]))は[[ドイツ]]の[[ビーダーマイヤー]]期を代表する[[オペラ]][[作曲家]]・[[指揮者]]。
 
== 略歴==
父の要求により[[フライブルク・イム・ブライスガウ|フライブルク]][[法律]]を学び、かたわら[[ジングシュピール]]を作曲、学生仲間で上演する。[[1800年]]、父の死によって音楽に踏み切り、各地を遍歴ののち、[[1811年]]、[[シュトゥットガルト]]で[[オペラ]]を上演する。[[1812年]]、[[宮廷楽長]]になるも[[1816年]]に辞職する。[[1818年]]、[[ドナウエッシンゲン]]の宮廷楽長に就任する。そして[[1822年]]、[[ウィーン]]の[[ケルントナートーア劇場]]楽長に就任する([[1827年]]まで)。その後も2度務める。[[1833年]]、ヨーゼフスタット劇場楽長に就任する。この間、[[1834年]]に作曲した『'''グラナダの夜営'''』で一躍有名になる。[[1840年]]にウィーンを去り、[[1842年]]まで[[ケルン]]の市音楽指揮者をめた。以後はオペラ歌手である娘[[セシリア・クロイツァー]]たちの演奏旅行や契約地を転々とし、[[1849年]]に末娘の契約地[[]]において[[脳溢血]]で倒れ、この世を去った。オペラのほかに3曲の[[ピアノ協奏曲]]、室内楽曲、ピアノ曲、歌曲などを残している。
 
== 作品==
* 歌芝居ジングシュピール『エリーとベテリー』([[1810年]])
* 歌劇オペラ『シュヴァーベンのコンラディン』([[1812年]])
* 喜歌劇オペレッタ『フェドーラ』([[1812年]])
* 歌劇オペラ『リブッサ』([[1822年]])
* 歌劇オペラ『美しいメルージーネの物語』 ([[1833年]])
* 歌劇オペラ『グラナダの夜営』([[1834年]])
* 歌劇オペラ『浪費者』([[1834年]])
* 歌劇オペラ『ブルガリアの公爵夫人』([[1849年]])
 
== 参考文献 ==
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* {{IMSLP|id=Kreutzer, Conradin}}
 
{{先代次代|[[ケルントナートーア劇場]]<br />楽長|1822 - 1827|[[イグナツ・フランツ・カステリ]]|[[フランツ・ラハナー]]}}
{{先代次代|[[ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団]]<br />初代音楽監督|1840 - 1842| |[[ハインリヒ・ドルン]]}}
 
{{DEFAULTSORT:くろいつああ こんらてえいん}}
[[Category:ドイツの作曲家]]
[[Category:ドイツの指揮者]]
[[Category:ロマン派の作曲家]]
[[Category:オペラ作曲家]]
[[Category:1780年生]]