メインメニューを開く

差分

{{otheruses|[[洞爺丸|洞爺丸型]]の大雪丸|[[津軽丸 (2代)|津軽丸型]]の大雪丸|大雪丸 (2代)}}
{| class="wikitable" style="float:right; border-width:0.2em; border-style:solid; border-color:#e0e0e0; margin: 0 0 0.5em 0.5em; width: 350px; background:#ffffff"
! style="color:#ffffff; background:#000080; text-align:center" colspan="3"|'''大雪丸'''
!colspan="3" style="background: #f0f8ff"|船歴
|-
|建造所||colspan="2"|[[三菱重工業|三菱重工]][[神戸造船所]]
|-
|起工|| colspan="2"|[[1947年]](昭和22年)[[3月26日]]
|車両積載量||colspan="2"|ワム換算18両
|-
|姉妹船|| colspan="2"|[[洞爺丸]][[羊蹄丸 (初代)|羊蹄丸]][[摩周丸 (初代)|摩周丸]]
|-
|船名符字|| colspan="2"|JTBP(JQQX)<ref>1949年1月から( )内の符字へ変更:古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p260 成山堂書店1988</ref>
|}
'''大雪丸'''(たいせつまる、Taisetsu Maru)は、かつて[[日本国有鉄道|]](国鉄]]の[[青函連絡船|青函航路]]に就航していた[[鉄道連絡船|車載客船]]。青函連絡船の大雪丸としては初代である。
 
青函連絡船の復興のため、[[運輸省]]鉄道総局が[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の許可を受けて建造した[[鉄道連絡船|車載客船]]4隻の4番船。同型船には[[洞爺丸]]、[[羊蹄丸 (初代)|羊蹄丸]]、[[摩周丸 (初代)|摩周丸]]がある。
 
[[洞爺丸台風]]に遭遇するも九死に一生の生還を果たし、その後も[[1964年]](昭和39年)8月末まで[[青函連絡船]]としての任務を全うした。 その後も中東紛争に巻き込まれるものの生き残るなど強運の船であったが、最後は[[アドリア海]]で火災による爆発で沈没するという数奇な運命をたどった。
 
==車載客船建造までの経緯==
[[1945年]](昭和20年)7月14、15両日のアメリカ軍の空襲で、[[青函連絡船]]は一時全船稼働不能となり、終戦時稼働できたのは、比較的損傷が軽く、短期間で復帰できた[[第五青函丸|第七青函丸、第八青函丸]]の2隻と、船舶運営会から傭船した[[壱岐丸|樺太丸]](旧関釜連絡船初代[[壱岐丸]]1598総トン)<ref>青函連絡船史巻末附表p6~7 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>のみであった。しかし、終戦後、[[青函航路]]には多くの旅客や貨物が押し寄せたため、 [[関釜連絡船|関釜航路]]の[[景福丸]](3620総トン)、同航路の貨物船[[壱岐丸 (2代) |壱岐丸(2代)]](3519総トン)、[[稚泊連絡船|稚泊航路]]の[[宗谷丸]](3593総トン)をはじめ、多くの商船、機帆船、旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して、この混乱に対応し<ref>青函連絡船史p199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>、[[1947年]](昭和22年)9月からは、空襲により擱坐していた関釜連絡船[[昌慶丸]]を浮揚修理して就航させた。また終戦後、博多―釜山間で朝鮮半島から日本への引揚げ、ならびに朝鮮半島への帰還輸送や、樺太からの引揚げ輸送に就いていた関釜連絡船[[徳寿丸]]も青函航路へ助勤させていた<ref>関釜連絡船史p117 p136~138 国鉄広島鉄道管理局1979</ref>。
115,734

回編集