「ポーランド・ソビエト戦争」の版間の差分

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ブーク川→ブク川。lk
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=== ウクライナへの影響 ===
ユゼフ・ピウスツキと[[{{仮リンク|ロマン・ドモフスキ]]|pl|Roman Dmowski|en|Roman Dmowski}}というポーランドの2人の傑出した指導者のうち、ピウスツキは旧[[ポーランド・リトアニア共和国]]の5月3日憲法の多民族共存・諸民族平等の[[自由主義]]理念による国家の復活を構想する[[社会民主主義]]者であった。ピウスツキがポーランド領として画定しようと考えていた地域はウクライナにおいては旧ポーランド・リトアニア共和国の[[キエフ県 (1471年-1793年)|キエフ県]]に他ならなかった。なお、ピウスツキは旧[[リトアニア大公国]]のリトアニア人貴族すなわち[[シュラフタ]]の家の出である。すなわちピウスツキ本人が旧ポーランド・リトアニア共和国の基本理念である諸民族平等の体現であった。
 
一方、ピウスツキの政敵でポーランド[[民族主義]]者であったドモフスキはポーランド民族の労働者階級の出身であったが、苦学して最高学府の[[ワルシャワ大学]]を優秀な成績で卒業し[[生物学者]]となった。学生時代からポーランド独立運動に関わり、その後は欧州各国や[[日本]]を巡って見聞を広めた彼は同時代的にはピウスツキよりも現実主義的で、「欧州の全ての国が民族主義の理念で[[国民国家]]の建設をしている現代ではピウスツキの多民族国家構想はもはや安定的な国家形態ではなく、[[ポーランド人|ポーランド民族]]が明らかに圧倒的多数で占められる地域のみに限定して構成されたよりコンパクトな領土のなかでポーランド人が排他的に運営するいわゆるポーランド民族中心主義の国家建設を目指したほうが堅実だ」「国民の誰もが民族意識の希薄だった旧ポーランド・リトアニア共和国当時ならいざしらずいまの時代はウクライナ人などといった排他的な思想を持つ異民族を自国に多く抱え込むのは民族同士の利権争いの種になり非常に危険である」「ポーランド人はもはや旧ポーランド・リトアニア共和国の復活を望むべきではない」「新生ポーランドは民族主義国家としてポーランド民族が独占的に運営し国内の少数民族にはポーランドへの同化を強制しポーランド化すべきだ」と主張してピウスツキと対立した。
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ポーランド軍も撤退を続けたが、戦略予備部隊の不足や重砲の不足とあいまって、整然とした撤退とはならず、壊走に近いものとなった。7月にも大規模な戦闘があり、激しい戦闘の末に赤軍が勝利し、ポーランド軍はさらに撤退することとなった。ポーランド軍は第一次世界大戦時のドイツ軍の塹壕跡を利用して防御を行ったりしたが、兵力・錬度不足により赤軍に突破された。[[7月14日]]にはヴィリニュスを、[[7月19日]]にはグロドノを赤軍が占領した。赤軍の進撃速度は速く、1日に20マイルになることもあった。
 
[[8月1日]]には、ブレスト・リトフスクを赤軍第16軍が占領したが、そこの[[ブク川]]においてポーランド第4軍は防戦を行い、赤軍を1週間に渡り足止めした。トゥハチェフスキー率いる赤軍の[[北西正面軍]]は、[[8月2日]]にワルシャワから60マイルの地点に到達している。南方のガリツィア地方においても赤軍の攻勢でリヴィウなどで戦闘が行われていたが、リヴィウ近郊においてもポーランド軍は反撃に成功し赤軍の進撃を足止めした。これを受けて、赤軍は利用可能な部隊をワルシャワ攻撃に集中させることとした。
 
=== ポーランド側の混乱 ===
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=== ヴィスワ川の奇跡 ===
[[ファイル:PBW August 1920.png|thumb|240px|1920年8月の勢力範囲]]
[[8月10日]]より赤軍のコサック部隊によるワルシャワ包囲のための行動が開始され、対するポーランド軍も[[エドヴァルト・リッツ=シミグウィ]]がワルシャワの守りを固め{{仮リンク|ワルシャワの戦い (1920年)|en|Battle of Warsaw (1920)|label=ワルシャワの戦い}}が始まった。トゥハチェフスキー率いる赤軍北西正面軍は、ワルシャワの北部にポーランド軍部隊が少ないことから、主力を北部に集中させ、北西正面軍の左翼は兵力を薄くし、ブジョーンヌイの第1騎兵軍にカバーしてもらう心積もりであった。赤軍司令部はトゥハチェフスキーの要請に従い、第1騎兵軍に北上するように命じたが、北西正面軍と南西正面軍の指揮官間の不仲や南西正面軍政治顧問の[[ヨシフ・スターリン]]の思惑により、第1騎兵軍はワルシャワではなく、南のリヴィウの攻略を継続することとなった。
 
[[ヴワディスワフ・シコルスキ]]将軍率いるポーランド第5軍は、[[8月14日]]にワルシャワの北にある[[モドリン]]から出撃し、1日あたり30キロ以上の迅速な機動を行い、赤軍の攻撃を足止めした。その間に、ピウスツキ指揮下の5個歩兵師団と1個騎兵旅団から成る機動部隊は、第1騎兵軍がカバーしなかったことから生じた、赤軍の北西正面軍と南西正面軍との間の間隙に進撃し、北西正面軍の包囲にかかった。包囲を恐れたトゥハチェフスキーは軍に撤退を命じ、赤軍は打撃を受け、ブク川の東まで撤退した。ポーランドはこの勝利を「ヴィスワ川の奇跡」と呼んだ。
 
8月17日には、赤軍のリヴィウへの進撃が停止した。[[8月29日]]から[[8月31日|31日]]にかけて、第1騎兵軍もリヴィウの北、[[ザモシチ|ザモシュチュ]]でポーランド騎兵部隊と戦闘を行い敗退する。[[9月6日]]の戦闘でも敗退し、東方のヴラジミルボルィンスキ方向へ撤退した。