「カルロス2世 (スペイン王)」の版間の差分

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当時のスペイン経済は停滞しており、土地も痩せていたために飢饉もあった。スペインの地方領主の力も非常に弱くなっていた。カルロス2世の不適当なスペイン支配はしばしば諸外国(特にフランス)に影響した。
 
カルロス2世の母マリアナが長い間摂政を行ったが、母が追放されると異母兄のオニャテ伯フアン・デ・アウストリア([[1677年]]から[[1679年]]まで宰相を務めた)が実権を握り、1679年には母が宮廷に戻り、再び摂政となった。[[ガスパール・デ・グスマン]]の権力が大きくなると、スペインの国力は次第に衰弱していった。[[1668年]]にポルトガルが北アフリカの飛び地([[セウタ]])をスペインに割譲したが、それはかつて60年以上ハプスブルク家の支配が続いたポルトガルにとっては小さな出来事であった。[[一方、フラン王ル14世が領土拡大を目論み起こした[[ネーデルラ異端審問ト継承戦争]]では[[1680年オランダ侵略戦争]]・[[大同盟戦争]]に160人が宗教裁判所裁かれ、21人が火刑されている。カルロス2世の数少ない政治活動として、スペインの宗教裁判所を調べ、調査のためにJunta Magna(大きな会議)を作はフランスと戦ったとされている。しかし、[[フェリペ5世アーヘンの和約 (スペイン王1668年)|アーヘンの和約]]、[[ナイメーヘンの和約]]、[[レイスウリペ5世イク条約]]が王位に就いた際に記録で[[南ネーデルラント]]の領地差し出すよう要求したにもかかわらず、記録は何故か見つからなか失っていった。
 
[[スペイン異端審問]]では[[1680年]]に160人が宗教裁判所で裁かれ、21人が火刑されている。カルロス2世の数少ない政治活動として、スペインの宗教裁判所を調べ、調査のためにJunta Magna(大きな会議)を作ったとされている。しかし、[[フェリペ5世 (スペイン王)|フェリペ5世]]が王位に就いた際に記録を差し出すよう要求したにもかかわらず、記録は何故か見つからなかった。
 
=== 結婚・一族 ===
1700年、カルロス2世はスペイン王位をアンジュー公フィリップに譲ると表明して死亡し、スペイン・ハプスブルク家は断絶した。[[1701年]]2月にルイ14世は[[高等法院 (フランス)|パリ高等法院]]にスペイン王位継承権執行を命令する。以後、[[スペイン・ブルボン朝|スペイン・ブルボン家]]は現代の[[フェリペ6世 (スペイン王)|フェリペ6世]]まで続くスペイン王家となった。
 
しかしこの王位継承を巡って[[スペイン継承戦争]]が勃発する。この戦争は[[1714年]]に終結するが、スペイン領であった[[南ネーデルラント]]を巡ってはルイ14世の曾孫[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の時代まで紛糾が続くことになる。
 
== 系図 ==
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