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== 生涯 ==
[[ケルン]]近郊のドイツ([[:de:Deutz|Deutz]])で陸軍の下士官の息子として生まれる<ref>{{Cite book|和書|author=波多野鼎・訳|year=1921|title=ベーベル自叙伝|publisher=大鐙閣|pages=3p}}</ref>。6歳の時に父を、13歳の時に母を失い、伯母の家に引き取られ、[[1853年]]から旋盤工となる修行のため徒弟奉公に入る<ref>{{Cite book|和書|author=波多野鼎・訳|year=1921|title=ベーベル自叙伝|publisher=大鐙閣|pages18ppages=18p}}</ref>。1858年に[[シュパイアー]]に職場を見つけ、さらに[[フライブルク]]に移り、そこでカトリック職人組合(Katholische Gesellenverein)に加入。1860年までザルツブルクで過ごし、3月に母の故郷(Wetzlar)に戻る。1860年5月に[[ライプツィヒ]]に移り、その翌年に職人教化組合(Gewerblichen Bildungsverein)に加入し、旋盤工として働きながら組合内での活動により知られるようになる<ref>{{Cite book|和書|author=波多野鼎・訳|year=1921|title=ベーベル自叙伝|publisher=大鐙閣|pages=40p}}</ref>。
 
1863年6月にフランクフルトで開催された労働組合会議に[[ライプツィヒ労働者教育協会]]の代表として出席する。使用者と非使用者との協調が可能であると信じていた当時のベーベルは、労働者は政治上独立の態度をとるべきであると主張する[[フェルディナント・ラッサール]]に反対していた。ラッサール死後の1864年10月にライプツィヒで開かれた第2回労働組合会議でベーベルは議長となり、労働組合会議の常任委員に選出された。1865年ライプツィヒで行われた多くのストライキで調停を試みるが、この際、有名な自由主義者たちが日頃の言動を裏切り労働者の要求に反対を示していることを発見した。1865年9月シュツットガルトでの第3回労働組合会議の決議ではベーベルの所属する労働者教化組合とラッサール派の[[全ドイツ労働者同盟]]は実際の政策上の諸問題について同一の立場であることが確認され、1866年までに両組合員は普通選挙権の獲得のために協力すべきことが確定された<ref>{{Cite book|和書|author=波多野鼎・訳|year=1921|title=ベーベル自叙伝|publisher=大鐙閣|pages=55p}}</ref>。
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