「シモン・ボリバル」の版間の差分

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| 各国語表記=Simón Bolívar
| 画像=Bolivar Arturo Michelena.jpg
| 画像サイズ =
| 代数=初
| キャプション =
| 職名=大統領
| 国名 = [[ファイル:FlagBandera ofde thela GranGuerra Colombiaa Muerte.svg|25x20px|border25px]] [[大コロ{{仮リビア|コロンビアベネズエラ第二共和国]]|en|Second Republic of Venezuela}}
| 代数 =
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| 職名 = 大統領
| 副大統領=[[フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル|フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール]]
| 就任日 = [[18191813年]][[128177日]]
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| 副大統領職=あり
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<!-- ↓省略可↓ -->
| 国名2 = [[ファイル:Bandera de Angostura (20 de noviembre de 1817).svg|25px]]{{仮リンク|ベネズエラ第三共和国|en|Third Republic of Venezuela}}
| 代数2 =
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| 国名3 = [[ファイル:Flag of the Gran Colombia.svg|25x20px|border]][[大コロンビア]]
| 代数3 =
| 職名3 = 大統領
| 就任日3 = 1819年12月17日
| 退任日3 = [[1830年]][[5月4日]]
| 副大統領3 = [[フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル|フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール]]
| 副大統領職名3 = 副大統領
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| 国名4 = {{BOL}}
| 代数4 = 初
| 職名4 = [[ボリビアの大統領|大統領]]
| 就任日4 = [[1825年]][[8月12日]]
| 退任日4 = 同[[12月29日]]
| 副大統領4 = [[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]
| 副大統領職名4 = 副大統領
| 元首4 =
| 国名5 = {{PER}}
| 代数5 = 第8
| 職名5 = [[ペルーの大統領|大統領]]
| 就任日5 = [[1824年]][[2月8日]]
| 退任日5 = [[1827年]][[1月28日]]
| 副大統領5 = [[アンドレス・デ・サンタ・クルス]]
| 副大統領職名5 = 副大統領
| 元首5 =
<!-- ↑省略可↑ -->
| 出生日=[[1783年]][[7月24日]]
| 生地=[[File:Flag of Spain (1785-1873 and 1875-1931).svg|25x20px|border]] {{仮リンク|ベネズエラ総督領|es|Capitanía General de Venezuela}} [[カラカス]]
| 生死=死去
| 死亡日={{死亡年月日と没年齢|1783|7|24|1830|12|17}}
| 没地={{COL1819}} [[サンタ・マルタ]]
| 配偶者 = マリア・テレサ・ロドリゲス・デル・トロ・イ・アライサ
| 政党=無所属
| サイン=Simón Bolívar Signature.svg
}}
'''シモン・ボリバル''' (Simón Bolívar)として知られる'''シモン・ホセ・アントニオ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ボリバル・イ・パラシオス'''<ref>ここに示したのは日本語表記の一例である。[[スペイン語の日本語表記]]も参照。</ref>'''Simón José Antonio de la Santísima Trinidad Bolívar y Palacios'''、[[1783年]][[7月24日]] - [[1830年]][[12月17日]])は、[[南アメリカ|南米]]大陸の[[アンデス山脈|アンデス]]5ヵ国を[[スペイン]]から独立に導き、統一したコロンビア共和国を打ちたてようとした[[革命家]]、[[軍人]]、[[政治家]]、[[思想家]]である。日本語では'''シモン・ボリーバル'''と表記されることも多い。
 
[[ベネズエラ]]の[[カラカス]]にアメリカ大陸屈指の名家の男子として生まれたが、早いうちに妻を亡くしたことが直接、間接のきっかけとなってボリバルはその後の生涯を[[ラテンアメリカ]]の解放と統一に捧げた。このため、ラテンアメリカでは「'''[[リベルタドーレス|解放者]]'''」 ('''El Libertador''') とも呼ばれる。多くの武将を配下にして使いこなし、特に[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]将軍との親交は有名である。
'''シモン・ボリバル'''('''シモン・ホセ・アントニオ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ボリバル・イ・パラシオス'''<ref>ここに示したのは日本語表記の一例である。[[スペイン語の日本語表記]]も参照。</ref>、'''Simón José Antonio de la Santísima Trinidad Bolívar y Palacios'''、[[1783年]][[7月24日]] - [[1830年]][[12月17日]])は、[[南アメリカ|南米]]大陸の[[アンデス山脈|アンデス]]5ヵ国を[[スペイン]]から独立に導き、統一したコロンビア共和国を打ちたてようとした[[革命家]]、[[軍人]]、[[政治家]]、[[思想家]]である。日本語では'''シモン・ボリーバル'''と表記されることも多い。
 
[[ベネズエラ]]の[[カラカス]]にアメリカ大陸屈指の名家の男子として生まれたが、早いうちに妻を亡くしたことが直接、間接のきっかけとなってボリバルはその後の生涯を[[ラテンアメリカ]]の解放と統一に捧げた。このため、ラテンアメリカでは「'''[[リベルタドーレス|解放者]]'''」 ('''El Libertador''') とも呼ばれる。多くの武将を配下にして使いこなし、特に[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]将軍との親交は有名である。
 
== 経歴 ==
=== 幼少期 ===
ボリバルは1783年、現在の[[ベネズエラ]]、[[カラカス]]の[[クリオーリョ]]の名家に生まれた。ボリバル家は、16世紀に[[ビスカヤ県|ビスカヤ]]からベネズエラに移住した[[バスク人]]の家系である。幼くして両親を亡くした<ref>父親は1786年3歳の時、母親は10歳の時に無くしている。</ref>が、アメリカ大陸有数の資産家ボリバル家の男子としてさまざまな家庭教師を付けられた。このときの教師の1人[[シモン・ロドリゲス]]の考えがボリバルに大きな影響を与えている<ref>ルソーの思想を教えられた。</ref>。さらに教育を受けるため、16歳のとき[[1799年]]にスペインで任官していたおじを頼ってヨーロッパに渡った。り、修学のためヨーロッパを旅行している。南米ドイツ人の自然学者だったドイツ人の[[アレクサンダー・フォン・フンボルト]]に南米独立にかける思いを語って一笑に付されるなどの屈辱的な経験もあったが、遊学中にスペインでマリア (Maria Teresa Rodríguez del Toro y Alaysa) と知り合うと、[[1802年]]に現地で結婚し、彼女を連れてベネスエラに帰国した。しかし翌[[1803年]]、[[熱帯]]の気候に耐えられなかったマリアは[[黄熱病]]でその生涯を閉じ、以降ボリバルは深い喪失感を抱いて生涯再婚することはなかった。[[1804年]]に傷心のままヨーロッパに戻り、しばらくは[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]に仕えたが、このころの、南アメリカでのスペインからの独立の機運を機に、祖国ベネズエラの独立を志すようになったといわれている。
 
=== ベネズエラ独立運動 ===
1806年にベネズエラ出身の元スペイン軍人だった[[フランシスコ・デ・ミランダ]]将軍がベネズエラ解放のための戦争を始めると、ボリバルはこれに興味を抱き、[[1807年]]にベネズエラに帰国した。南アメリカは14001,400万人の人口を擁し、ヨーロッパ人と現地人の混血が進んでいた<ref>フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年 117ページ</ref>。
[[ファイル:Hw-bolivar.jpg|thumb|250px|シモン・ボリバル肖像]]
その後[[1808年]]にナポレオンがスペインに侵入して兄の[[ジョゼフ・ボナパルト]]をスペイン王ホセ1世として擁立した際、ボリバルは反王政派(愛国連盟)に加わった。[[1810年]][[4月19日]]、カラカスは植民地の自治を実行するための議会を設置。ボリバルは[[イギリス]]に革命の支持を取り付けるために派遣された。イギリスでの活動目的は、スペイン植民地独立運動の説明と万が一の場合の武器などの支援を受けられるように働きかけることであった。資産以外に何の後ろ盾もなかったボリバルの[[イングランド]]説得は不成功に終わったが、ボリバルはイギリスの政治制度から多くを学び、後年世界で最も優れた政治体制は君主制を除いてイギリスのものだと語っている。
[[ファイル:Plaza Bolívar of Ciudad Bolívar.jpg|thumb|right|250px|[[シウダ・ボリバル]]の銅像]]
[[ファイル:Simon_Bolivar.jpg|thumb|right|200px|[[シモン・ボリバル]]の肖像]]
1806年にベネズエラ出身の元スペイン軍軍人だった[[フランシスコ・デ・ミランダ]]将軍がベネズエラ解放のための戦争を始めると、ボリバルはこれに興味を抱き、[[1807年]]にベネズエラに帰国した。南アメリカは1400万人の人口を擁し、ヨーロッパ人と現地人の混血が進んでいた<ref>フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年 117ページ</ref>。
その後[[1808年]]にナポレオンがスペインに侵入して兄の[[ジョゼフ・ボナパルト]]をスペイン王ホセ1世として擁立した際、ボリバルは反王政派(愛国連盟)に加わった。[[1810年]][[4月19日]]、カラカスは植民地の自治を実行するための議会を設置。ボリバルは[[イギリス]]に革命の支持を取り付けるために派遣された。イギリスでの活動目的は、スペイン植民地独立運動の説明と万が一の場合の武器などの支援を受けられるように働きかけることであった。資産以外に何の後ろ盾もなかったボリバルの[[イングランド]]説得は不成功に終わったが、ボリバルはイギリスの政治制度から多くを学び、後年世界で最も優れた政治体制は君主制を除いてイギリスのものだと語っている。
 
ボリバルは[[1811年]]にベネズエラに帰国、3月に開かれた制憲会議で演説を行った。1811年7月に、制憲会議がベネズエラの独立を宣言。ボリバルはベネズエラ国軍に入隊した。ボリバルはプエルト・カベロの要塞の守備をしていたが、将校の裏切りにより要塞がスペイン軍の手に渡ってしまった。さらに同年起こったカラカス大地震による被害は大きく、[[1812年]]7月、カラカスは再びスペイン軍に占領されてしまう。これを重く見た政権のリーダーであったミランダ将軍はスペインと休戦(事実上の降伏)したが、ボリバルは徹底抗戦を誓って裏切り者のミランダをスペイン軍に引き渡し、12月には{{仮リンク|ヌエバ・グラナダ連合州|en|United Provinces of New Granada}}([[1810年]] - [[1816年]])が支配していた現[[コロンビア]]のカリブ海沿岸の都市[[カルタヘナ (コロンビア)|カルタヘナ]]に向った。1812年12月のことであった。
 
=== カルタヘナ宣言 ===
ヌエバ・グラナダのカルタヘナで、スペインへの徹底抗戦を誓う'''カルタヘナ宣言'''を発表。これに共感したヌエバ・グラナダの市民はボリバルをベネズエラ解放遠征軍司令官に任命。[[ボゴタ|サンタフェ・デ・ボゴタ]]を中心とする{{仮リンク|クンディナマルカ共和国|es|Estado Libre de Cundinamarca|en|Free and Independent State of Cundinamarca}}([[1810年]] - [[1815年]])の指導者{{仮リンク|アントニオ・ナリーニョ|es|Antonio Nariño|en|Antonio Nariño}}の支援を得て[[1813年]]、ボリバルはベネズエラ進攻を指揮して5月23日にメリダに入り、''El Libertador''(解放者)と呼ばれた。8月6日にカラカスを奪回し、{{仮リンク|ベネスエラ第二共和国|en|Second Republic of Venezuela}}([[1813年]] - [[1814年]])の成立を宣言した。
 
兵力劣勢な共和派が成功したのは、軽快な機動力と優れた戦術によるものであった。だがカラカスに入りむと、ボリバルの足は縛られた。強力な王党派軍はたいして減っておらず、白人クリオーリョへの反感を利用して地方の[[メスティーソ]]や[[インディオ]]などの民衆から兵を集め、カラカスを締め上げた。カラカス市民は共和派支持を鮮明にしており、その頃荒れ狂っていた王党派の虐殺から逃れてきた難民でカラカスの人口は膨れ上がった。そのような情勢で軽々しく市を放棄すると、味方の市民が殺される恐れがあった。[[1814年]]に共和派の軍は防衛戦で消耗したあげく、分かれて脱出した。ボリバルが市民を引きつれて東に脱出すると、スペイン軍は再びカラカスを占領した。さらにその頃ヌエバ・グラナダではボゴタが陥落し、クンディナマルカ共和国が崩壊していた。
 
ボリバルは カルタヘナへと戻ると、ヌエバ・グラナダ連合州の軍を率いてボゴタを攻略した。さらに[[サンタ・マルタ]]のスペイン軍を包囲するが、根拠地だったカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れたため、[[1815年]]にイギリス領[[ジャマイカ]]へと亡命した。
ジャマイカに逃れたボリバルは、南アメリカ諸国<ref>ベネズエラ、ヌエバ・グラナダを一つにしてコロンビア共和国を作る。(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科』Ⅲ フランス革命ー世界大戦前夜 原書房 2005年 118ページ)</ref>をイギリスの立憲君主制のような政治システムで自由を勝ち取る構想を元に、'''ジャマイカ書簡'''と呼ばれる著作を執筆した。この書簡を使ってイギリスの援助を求めたが、イギリスはこれを黙殺した。
 
[[1815年]]にボリバルは[[イスパニョーラ島]]に渡り、南西部の[[ハイチ|ハイチ共和国]]を支配していた[[アレクサンドル・ペション]]大統領に軍事的援助を求めた。解放戦争終了後、黒人奴隷を解放することを条件にペションはこれを認め、物心共に援助を与えた。
解放戦争終了後、黒人奴隷を解放することを条件にペション大統領はこれを認め、物心共に援助を与えた。
 
=== ボヤカの戦い ===
[[ファイル:Battle-of-Boyaca.jpg|thumb|170px200px|right|[[ボヤカの戦い]]]]
[[1816年]]にハイチの援助を得てボリバルはベネズエラに上陸し再びスペインとの戦闘を開始した。ここで奴隷制を廃止し、その解放した奴隷たちを自軍の兵士に組み込み一進一退の戦いを続けたが、{{仮リンク|ジャネーロ|en|Llanero}}({{lang|es|Llanero}})を説得し、アンゴストゥーラを攻略したところで劣勢になり、再びハイチに亡命した。[[1817年]]夏に再びベネズエラに上陸し、アンゴストゥーラ(現在の[[シウダ・ボリバル]])を攻略すると、今度はアンゴストゥーラを{{仮リンク|ベネスエラ第三共和国|es|Tercera República de Venezuela}}([[1817年]] - [[1819年]])の臨時首都と宣言した。さらにジャネーロの頭目だった[[カウディーョ]]{{仮リンク|ホセ・アントニオ・パエス|en|José Antonio Páez|label=アントニオ・パエス}}の協力を取り付けることに成功し、イギリスは独立勢力を公然と援助することはなかったが、この頃イギリス・スペイン関係は冷却化していたためイギリス人やスコットランド人やアイルランド人の[[義勇兵]]が軍に加わってきた。
 
ベネズエラでの作戦中、1816年ボゴタが陥落し、ヌエバ・グラナダの独立勢力は完全に崩壊した。[[1819年]]、ボリバルは守りの堅いカラカスをやり過ごしてヌエバ・グラナダにとってかえす作戦を立案した。部隊を二手に分け、一隊を平野部(ジャノ)に進撃させ、ボリバル率いる本隊はアンデス山脈を越えてヌエバ・グラナダへ進撃するというものであった。ボリバル率いる本隊は、風雨と寒気にさらされて多数の死者を出したが、スペイン軍の裏を見事に衝いて、同年8月7日、[[ボヤカの戦い]] (Boyacá) で勝利し、8月10日ボゴタに再入城した。
 
=== 大コロンビア ===
[[1819年]]12月、ボリバルは{{仮リンク|アンゴストゥーラ議会|es|Congreso de Angostura|en|Congress of Angostura}}でヌエバ・グラナダ共和国の大統領と軍指揮官になった。ボリバルは議会にヌエバ・グラナダとベネズエラを合併した新しい国家の創設を要請した。直ちに現在のベネズエラ・コロンビア・[[パナマ]]・[[エクアドル]]を合わせた地域がコロンビア共和国(後世呼ばれる[[大コロンビア]])として宣言された。しかし、ベネズエラと[[キト]]と[[グアヤキル]]は依然としてスペインの支配下であった。
 
[[1820年]]にボリバル軍とスペインの間で6ヵ月の休戦条約が結ばれるが、休戦期間終了後間もなく、ボリバルとスペイン軍の間で戦闘が起こる。 ベネズエラに侵攻したボリバルは[[1821年]]6月の{{仮リンク|カラボボの戦い (1821年)|en|Battle of Carabobo}}で勝利し、故郷カラカスを奪還する。ボリバルは、大コロンビアの憲法起草のための{{仮リンク|ククタ議会|es|Congreso de Cúcuta|en|Congress of Cúcuta}}に招集され、初代コロンビア共和国の大統領として指名を受けた。そして国内が一応固まる様子をみせると、内政はそれまで副官を務めていたヌエバ・グラナダ人の副大統領[[フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル|フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール]]以下に任せて、ボリバルは王党派の牙城[[ペルー]]方面の解放に向かった。
 
[[1822年]]、ボリバルはエクアドル方面の攻略を本格化させる。ボリバルの率いる部隊が山間部からエクアドルに侵入し、ボリバルの部下であったベネズエラ人の[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]が太平洋側からエクアドルに進んだ。スクレの部隊は 1822年5月24日に{{仮リンク|ピチンチャの戦い|en|Battle of Pichincha}}で勝利を収め、翌日にはキトに入城を果たした。ボリバルもキトに合流し、ここにエクアドルの解放を果たした。また、ここでボリバルの「永遠の愛人」[[マヌエラ・サエンス]]と出会うことになった。
 
[[ファイル:Guayaquil LaRotonda Bolivar SanMartin.JPG|left|thumb|275px|[[グアヤキル]]に並び立つ、二人の解放者とラテン・アメリカの解放と統一の記念碑]]
[[アルゼンチン]]の[[ホセ・デ・サン・マルティン]]将軍は、チリの独立指導者[[ベルナルド・オイヒンス]]や、[[スコットランド]]の元[[英王立海軍]]軍人[[トマス・コクラン]]らの力を借りて、アルゼンチンの[[メンドーサ]]から'''{{仮リンク|アンデス山脈越え|en|Crossing of the Andes}}'''を持って[[チリ]]を解放し、そこから海路ペルーまで進み、初代ペルー護国官となって南から解放戦争を進めていた。しかし、スペイン軍とペルー副王のラセルナは抵抗を続けてサン・マルティンを翻弄し、ペルー第一共和国の崩壊が迫っていた。
 
=== グアヤキル会談 ===
[[ファイル:Guayaquil LaRotonda Bolivar SanMartin.JPG|left|thumb|275px250px|[[グアヤキル]]に並び立つ、二人の解放者とラテン・アメリカの解放と統一の記念碑]]
サン・マルティンは大コロンビア軍に支援を求めようとした。ボリバルはこの思わぬもう一人の解放者に出くわしたことを喜び、解放された[[グアヤキル]]で1822年7月26日に{{仮リンク|グアヤキル会談|es|Entrevista de Guayaquil|en|Entrevista de Guayaquil}}を行った。会談の内容は資料が残っておらず詳細は不明であるが、グアヤキル地方の帰属問題とペルーのスペインからの独立の仕方であったといわれている。ボリバルが共和制を望んだのとは対照的に、サン・マルティンはヨーロッパから王を導入して[[立憲君主制]]を導入することを望んでいたが、ナポレオンの戴冠によりフランス革命が大失敗したと考えていたボリバルにとって、これは到底受け入れることのできない条件だった。結局、ボリバル軍に加わりたいというサン・マルティンの申し出もボリバルが断ると、サン・マルティンはアルゼンチンに帰国してしまった。
 
=== ペルー解放 ===
[[1823年]]9月に、ボリバル軍は[[リマ]]に進出し、リマの東山地に陣地を築いていたスペイン軍と対峙した。ピチンチャの戦いで活躍したスクレを総司令官(実質的には参謀長)に据えて、攻略を開始した。ボリバルは病に倒れ戦線を離脱したが、スクレが1824年12月9日、{{仮リンク|アヤクーチョの戦い|en|Battle of Ayacucho}}で大勝し、ペルー副王の{{仮リンク|ホセ・デ・ラ・セルナ|en|José de la Serna e Hinojosa}}を降伏させた。
 
[[アルト・ペルー]](高地ペルー)は依然としてスペイン軍に支配されていたが、スクレが[[1825年]]4月に解放し、ラテン・アメリカ大陸部での解放戦争はここに終結した。こうして植民地時代には同一の行政区画だったペルー、アルゼンチンとの連合を望まなかったアルト・ペルー支配層と、ボリバルらの思惑が一致したためアルト・ペルー共和国が誕生した。1825年[[8月6日]]、アルト・ペルー共和国議会は独立におけるボリバルとスクレの功績を讃え、独立に際して国名を[[ボリビア]]、首都名を[[スクレ (ボリビア)|スクレ]](旧チャルカス)と定めた。
こうして植民地時代には同一の行政区画だったペルー、アルゼンチンとの連合を望まなかったアルト・ペルー支配層と、ボリバルらの思惑が一致したためアルト・ペルー共和国が誕生した。
1825年[[8月6日]]、アルト・ペルー共和国議会は独立におけるボリバルとスクレの功績を讃え、独立に際して国名を[[ボリビア]]、首都名をスクレ(旧[[チャルカス]])と定めた。
 
=== ラテンアメリカ諸国連合 ===
 
=== 内乱 ===
[[1827年]]、大コロンビアのベネズエラとヌエバ・グラナダの間で内乱が起きると、鎮圧のためボリバルはリマを去った。ボリバルは、あくまで大コロンビア、ラテンアメリカ連合の維持を理想とした。[[1828年]]4月に大コロンビア国民会議を招集し、選挙を実施。憲法を停止して、独裁権を手中に収める。しかし、副大統領の[[フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル|サンタンデ]]によるボリバル暗殺計画や、自身の健康状態の悪化などにより事態は流動的になり始めた。
 
[[1829年]]、現在のエクアドルにあたる地域の領有を要求した[[ペルー軍]]がグアヤキルに侵入した({{仮リンク|グラン・コロンビア=ペルー戦争|en|Gran Colombia–Peru War}})。これはスクレによって撃破されたが、もはやボリバルの権威の低下は誰の目にも明らかだった。さらにボリバル配下の将軍[[ホセ・マリア・コルドバ]]が反乱を起こす。これもまた鎮圧されたが、1829年の秋には、ベネズエラで{{仮リンク|ホセ・アントニオ・パエス|en|José Antonio Páez|label=アントニオ・パエス}}が大コロンビアから分離独立を宣言し、[[1830年]]に入るとまずベネズエラが正式に完全分離独立を宣言、続いてキトとグアヤキルがエクアドルとして独立した。
 
=== 最期 ===
1830年、ボリバルは自身の政治的な役割の終焉を悟り、全ての地位を放棄してヨーロッパへと向かうことを決意する。[[マグダレナ川|マグダレーナ川]]を下っている最中にボリバルの後継者と目され、ボリバルの危機を何度も救ったスクレ陸軍総監が、選出されたエクアドル大統領の任に就く際の移動中に暗殺されたことを聞き、深い喪失感に襲われた。カリブ海の港町[[サンタ・マルタ (コロンビア)|サンタ・マルタ]]まで来たところでボリバルは急に[[腸チフス]]が悪化し、ヨーロッパ行きを取りやめた。サンタ・マルタのスペイン人の邸宅で療養生活をしていたが、同年12月17日に死去した。ボリバルの死後、[[1831年]]に[[ラファエル・ウルダネータ]]将軍の独裁が崩壊すると、残存部の[[ヌエバ・グラナダ共和国]]がコロンビア共和国から独立し、ボリバルのラテンアメリカ統合の夢は完全に敗れた。
 
植民地時代にはアメリカ大陸でも有数の大富豪だったボリバル家も、シモンが革命の理念とハイチ人との約束のために自らの奴隷を解放し、農園や鉱山を売却し、私財のほぼ全てを投じて解放戦争を続けたために死の直前には財産はほとんど何も残っておらず、シモンの死によってボリバル家は完全に没落した。その一方でベネスエラの{{仮リンク|ホセ・アントニオ・パエス|en|José Antonio Páez|label=アントニオ・パエス}}やエクアドルの{{仮リンク|フアン・ホセ・フローレス|en|Juan José Flores|label=フローレス}}、ペルーの{{仮リンク|ホセ・デ・ラ・マール|es|José de La Mar|en|José de la Mar|label=デ・ラ・マール}}のように、かつての部下だった将軍達の多くはボリバルを裏切り、解放戦争によって得た権力で私財を蓄え、各国の寡頭支配層を形成した。後世への戒めか、死の間際に「革命の種子を播こうとする者は、大海を耕す破目になる」という言葉を残している。
 
== 人物像 ==
[[ファイル:Hw-bolivarPlaza Bolívar of Ciudad Bolívar.jpg|thumb|right|250px|[[モンウダ・ボリバル]]の銅像]]
踊りが上手く、非常に情熱的で、理想主義者であったといわれている。また文筆の才能にも優れていた。特に若い頃に[[シャルル・ド・モンテスキュー|モンテスキュー]]や[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]の思想に触れ、ナポレオンの戴冠式に出席したことが、後年に大きな影響を与えたといわれる。生涯を[[共和主義者]]として過ごし、君主制の導入を断固として拒否したのはナポレオンに失望したからであったようである。
 
彼の名は、現在でも南アメリカ各地に大きな影響を与えている。すでに述べたが、ボリビアの国名の由来にもなり、ベネズエラにはボリバルの名の付いた都市([[シウダ・ボリバル]])がある。またカラカス最寄りの[[シモン・ボリバル国際空港|マイケティア国際空港はシモン・ボリバルの名を合わせ持つ]]。多くの街角には解放者ボリバルの銅像が立ち並び、ベネズエラの地図作成の役所は「ベネズエラ地理院シモン・ボリバル」を正式名称とする。カラカスの[[ボリバル広場 (カラカス)|ボリバル広場]]と、ボゴタのボリバル広場は、それぞれベネズエラとコロンビアの首都の中心広場(プラサ・マジョール)である。「アラブの春」で象徴的な働きをしたカイロのタハリール広場の隣にも「シモン・ボリバル広場」がある。その他各国の州都市街区街路大学など、ボリバルの名を冠するものは夥しい。ベネズエラの通貨単位はボリバルで、紙幣の肖像画も多くはボリバルのものとなっている。1999年にベネズエラの大統領に就任した[[ウーゴ・チャベス]]は、ボリバル革命を唱えて国名に「ボリバル」を挿入し、ベネズエラの正式国名は「ベネズエラ・ボリバル共和国」となった。
 
なお[[ラテンアメリカ文学]]を代表する作家、[[ガブリエル・ガルシア・マルケス|ガルシア・マルケス]]による[[歴史小説]]で、ボリバル最期の日々を描いた『[[迷宮の将軍]]』<ref>「迷宮の将軍」原著は1989年刊、短期間で英訳ほかが、世界各国で訳された。日本版は[[木村栄一]]訳で[[新潮社]]、1991年/新版2007年</ref>がある。
 
 
== 語録 ==
* [[シモン・ボリバル国際空港]]
 
 
{{Start box}}
{{S-off}}
{{Succession box
| title = [[ファイル:Bandera de Angostura (20 de noviembre de 1817).svg|25px]]{{仮リンク|ベネズエラ第三共和国|en|Third Republic of Venezuela}}大統領
| years = 1817年10月 - 1819年12月17日
| before = -
| afternote = 初代[[ベネズエラの大統領|ベネズエラ大統領]]
| after = {{仮リンク|ホセ・アントニオ・パエス|en|José Antonio Páez}}
}}
{{Succession box
| title = [[ファイル:Flag of the Gran Colombia.svg|25x20px|border]][[大コロンビア]]初代大統領
| years = 1819年12月17日 - [[1830年]][[5月4日]]
| before = -
| afternote = 暫定大統領
| after = {{仮リンク|ドミンゴ・カイセド|en|Domingo Caycedo}}
}}
{{Succession box
| title = {{BOL}}[[ボリビアの大統領|大統領]]
| years = 初代:1825年8月12日 - 同12月29日
| before = -
| afternote = 大統領代理
| after = [[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]
}}
{{Succession box
| title = {{PER}}[[ペルーの大統領|大統領]]
| years = 第8代:1824年2月8日 - 1827年1月28日
| before = {{仮リンク|ホセ・ベルナルド・デ・タグレ|en|José Bernardo de Tagle y Portocarrero, Marquis of Torre Tagle}}
| after = [[アンドレス・デ・サンタ・クルス]]
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{{ペルー大統領|1819-1830}}