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海ボチャン (会話 | 投稿記録)
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== 経歴 ==
[[福島県会津国]]出身。[[会津藩]]士・石塚和三郎の長男として生まれる。[[開成中学校・高等学校|共立学校]]、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、[[1890年]](明治23年)7月、[[東京大学|帝国大学]]法科大学政治学科を首席で卒業。同年同月、[[内閣法制局|法制局]]試補となり、以後、法制局[[参事官]]、兼法制局[[書記官]]などを歴任。[[1894年]](明治27年)12月から翌年7月まで内閣顧問官として[[李氏朝鮮|朝鮮国]]に出張した。
 
1898年(明治31年)3月、医学系[[テクノクラート]]としては実績があるものの、[[児玉源太郎]][[台湾総督府#台湾総督|台湾総督]]の下で行政全般を扱う[[台湾総督府#総務長官|民政局長]]起用には不安が持たれた[[後藤新平]]を補うため、同総督府の[[文官]]ナンバーツーとして[[勅任官|勅任]][[参事官]]に就任。以後、台湾総督府の参事官長、[[台湾総督府民政部|民政部]]外事課長心得、[[台湾総督府内務局|総務局長]]を歴任したが、後藤民政長官としばしば対立し、[[日露戦争]]中の1905年(明治38年)5月、児玉[[満州軍 (日本軍)|満州軍]]総参謀長が兼任する総兵站監の隷下に設けられた[[大連市|大連]]の[[関東州]]民政署民政長官を兼務となり、同年8月に民政長官の専任となって、後藤と勤務地が離れた。そして[[1906年]](明治39年)9月、[[関東都督府]]が設立されると民政長官に就任したが、後藤が[[南満州鉄道]]総裁兼関東都督府顧問として赴任して来ると両者の確執が再燃し、1907年(明治40年)4月に民政長官を更迭され、同年9月、[[統監府]]に転じ参与官となった<ref>駄場裕司『後藤新平をめぐる権力構造の研究』(南窓社、2007年)89-91頁、101-103頁。</ref>。統監府では監査部長、[[朝鮮総督府総督官房|総務長官]]事務取扱を歴任。1910年(明治43年)10月、[[朝鮮総督府]]設置に伴い取調局長官に就任。1912年(明治45年)4月、[[朝鮮総督府農商工部]]長官となり、[[寺内正毅]][[朝鮮総督府#朝鮮総督|総督]]が退任する1916年(大正5年)10月まで在任し、同月21日、貴族院勅選議員に任命され<ref>『官報』第1269号、大正5年10月23日。</ref>、[[同和会]]に属し1934年(昭和9年)4月まで活動した。また、1916年10月に[[東洋拓殖|東洋拓殖株式会社]]総裁となり1923年(大正12年)12月まで在任した。