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'''平沼 淑郎'''(ひらぬま よしろう、[[1864年]][[3月14日]]([[文久]]4年[[2月7日 (旧暦)|2月7日]])- [[18641938年]][[3月14日]])- [[昭和]]13年([[1938年]])[[8月14日]])は[[日本]]の経済学者。[[法学]][[博士]]。第三代[[早稲田大学]]学長。元[[内閣総理大臣|首相]][[平沼騏一郎]]の兄。字は君一。'''鶴峯'''、洋堂学入、灑骨野人、鶴廼家などと号す。[[平沼赳夫]]は曾孫。
 
早稲田大学商学部長として学部の充実に貢献し、商学部棟の1階に[[朝倉文夫]]作の胸像がある。
 
== 年譜 ==
*[[文久1864年]]4年([[1864年文久]]4年):現在の[[岡山県]][[津山市]]に[[津山藩]]士、平沼晋(1832-1914)の長男として生まれる。
*[[明治1884年]]17年([[1884年明治]]17年):[[東京大学]]文学部政治理財学科卒業
*明治21年([[1888年]](明治21年):第二高等学校教授に就任
*明治29年([[1894年]](明治29年):[[大阪商科大学 (旧制)|市立大阪商業学校]]長に就任
*[[大正1918年]]7年([[1918年大正]]7年):[[早稲田大学]]第三代学長に就任
*[[昭和1938年]]13年([[1938年昭和]]13年):没。
 
== その他 ==
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== 家系 ==
平沼家について『日本現今人名辞典』(1900年([[明治]]33年))に「…其先詳ならず八代の祖織右衛門延良[[駿府]]<ref>[[駿府]]は今の[[静岡市]]。</ref>[[与力|與力]]たり[[弓術]]に長ず[[享保]]中<ref>[[享保]]は[[江戸時代]]、[[中御門天皇]]・[[桜町天皇]]の時代。西暦[[1716年]]から[[1735年]]までの期間。</ref>[[津山藩]]の[[武士|士籍]]に列す父を晋と云ふ」とある。
 
== 脚注 ==