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[[File:jean-paul_marat 3.jpg|thumb|200px|ジャン=ポール・マラー]]
'''ジャン=ポール・マラー'''(Jean-Paul Marat、[[1743年]][[5月24日]] - [[1793年]][[7月13日]])は[[フランス]]の革命指導者、医師。革命勃発後、[[山岳派]]に加わり[[恐怖政治]]を推進した。
 
== 生涯 ==
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=== 暗殺と死後 ===
[[File:Death of Marat by David.jpg|thumb|200px|『マラーの死』([[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]画 )]]
この頃、マラーは持病の皮膚病が悪化活動不能となり自宅にこもって1日中入浴して療養していた。[[1793年]]、面会に来たジロンド派支持者の[[シャルロット・コルデー]]によって暗殺された。
 
暗殺後、現場で画家[[ジャック=ルイ・ダヴィッド]]が有名な『マラーの死』を描いている。ジャコバン派の盟友[[マクシミリアン・ロベスピエール]]によって神格化され、ジロンド派への弾圧強化の口実となった。マラーの遺体は「革命の殉教者」として[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]に埋葬されたが[[テルミドールのクーデター]]後に取り除かれた。
 
== その他 ==
マラーは暴力的主張をする新聞を発行していたことで、[[フランス第二帝政]]期には非道な人物といわれ、現在でも革命家か血に飢えた狼かというように評価が別れている。
 
また、化学者[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]の処刑は、マラーの私怨<ref>革命前に、ラヴォアジエは当時、化学者であったマラーの論文審査を学会から依頼され行ったが、その論文が実験もせず憶測の内容であったため、承認しなかった。その逆恨みで処刑を行ったとされている。</ref>によるものだとも言われている。
 
== 脚注 ==