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'''大雪丸'''(たいせつまる)は、かつて[[日本国有鉄道]](国鉄)の[[青函連絡船|青函航路]]に就航していた[[鉄道連絡船|車載客船]]である。
 
青函連絡船の復興のため、当時の[[運輸省]]鉄道総局が[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の許可を受けて建造した[[鉄道連絡船|車載客船]]4隻の4船。同型船には[[洞爺丸]]、[[羊蹄丸 (初代)|羊蹄丸]]、[[摩周丸 (初代)|摩周丸]]がある。
 
[[洞爺丸台風]]に遭遇するも九死に一生の生還を果たし、その後も[[1964年]](昭和39年)8月末まで青函連絡船としての任務を全うした。その後も中東紛争に巻き込まれるものの生き残るなど強運の船であったが、最後は[[アドリア海]]で火災による爆発で沈没するという数奇な運命をたどった。
 
== 車載客船建造までの経緯 ==
[[1945年]](昭和20年)7月14、15日の[[アメリカ軍]][[空襲]]で、[[青函連絡船]]は一時全船稼働不能となり、終戦時稼働できたのは、比較的損傷が軽く、短期間で復帰できた[[第五青函丸#第七青函丸|第七青函丸]] [[第五青函丸#第八青函丸|第八青函丸]]の2隻と、船舶運営会から傭船した[[壱岐丸|樺太丸]](旧関釜連絡船初代[[壱岐丸]]1598総トン)<ref>青函連絡船史巻末附表p6~7 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>のみであった。しかし、終戦後、[[青函航路]]には多くの旅客や貨物が押し寄せたため、 [[関釜連絡船|関釜航路]]の[[景福丸]](3620(3,620.60総トン<ref name="renrakusenshiend16">青函連絡船史巻末附表p16 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>)、同航路の貨物船[[壱岐丸 (2代) |壱岐丸(2代)]](3519(3,519.48総トン<ref name="renrakusenshiend16"/>)、[[稚泊連絡船|稚泊航路]]の[[宗谷丸]](3593(3,593.16総トン<ref name="renrakusenshiend16"/>)をはじめ、多くの商船、機帆船、旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して、この混乱に対応し<ref>青函連絡船史p199 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>、[[1947年]](昭和22年)9月からは、空襲により擱坐していた関釜連絡船[[昌慶丸]](3,620.60総トン<ref name="renrakusenshiend16"/>)を浮揚修理して就航させた。また終戦後、博多―釜山間で朝鮮半島から日本への引揚げ、ならびに朝鮮半島への帰還輸送や、樺太からの引揚げ輸送に就いていた関釜連絡船[[徳寿丸]](3,619.66総トン<ref name="renrakusenshiend16"/>)も青函航路へ助勤させていた<ref>関釜連絡船史p117 p136~138 国鉄広島鉄道管理局1979</ref>。
 
このような状況下、当時就航中あるいは建造中であった車両渡船[[第五青函丸#第八青函丸|第八青函丸]]、[[第五青函丸#第十一青函丸|第十一青函丸]]、[[第五青函丸#第十二青函丸|第十二青函丸]]、[[石狩丸 (初代) |石狩丸(初代)]]の船楼甲板に、旅客用甲板室を造設して客載車両渡船(デッキハウス船)とし、旅客輸送力増強を図ったが、いずれも「進駐軍専用船」に指定されてしまい、一般の旅客・貨物の利用はできなくなってしまった。また当時の車両渡船は、新造船も含め、全て[[戦時標準船]]で劣悪な船質のうえ、十分な補修もされず酷使され続けたことで、故障や事故が頻発し<ref>坂本幸四郎 青函連絡船p96 朝日イブニングンニュース社1983</ref>、貨車航送能力も一向に回復しなかった。
実施可能な旅客輸送力回復策として、本来は旅客設備を持たない車両渡船の船楼甲板に旅客用甲板室を造設し、客載車両渡船化する工事を、当時就航中および就航予定の全車両渡船に施工する方針をとり、[[1946年]](昭和21年)年5月には [[第五青函丸#第八青函丸|第八青函丸]]への旅客用甲板室設置と、建造中に旅客用甲板室を造設した新造船 [[第五青函丸#第十二青函丸|第十二青函丸]]の就航を見たが、進駐軍はその直後の[[1946年]](昭和21年)年6月に、就航中ならびに今後就航予定の全客載車両渡船を進駐軍専用船に指定する、との指令を出したため、この目論見は頓挫した。
 
当時の車両渡船は、新造船も含め、[[戦時標準船]]で劣悪な船質のうえ、十分な補修もされず酷使され続けたことで、故障や事故が頻発し<ref>坂本幸四郎 青函連絡船p96 朝日イブニングンニュース社1983</ref>、一向に貨車航送能力は回復しなかった。これに業を煮やした進駐軍の命令で、貸与された[[LST-1級戦車揚陸艦|LST]]([[戦車揚陸艦]])を車両渡船に改造し、[[1946年]](昭和21年)3月31日から貨車航送を開始したが<ref>青函連絡船史巻末附表p6 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>、期待通りの結果は得られず<ref>青函連絡船栄光の航跡p322 北海道旅客鉄道株式会社1988</ref>、青函航路の貨車航送能力は低迷したままで、北海道に駐留するアメリカ軍自身の物資輸送にも支障をきたすところとなった。
 
このような状況下ため、それまでは新造船新規着工を許可しなかったGHQが<ref name="koso259">山本煕 車両航送p259 日本鉄道技術協会1960</ref>、[[1946年]](昭和21年)7月に至り[[運輸省]]鉄道総局はGHQよりの建造申請に対し、青函航路用として車載客船4隻、車両渡船4隻、計8隻という大量の連絡船建造の許可を取り付けることに成功した<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p114 成山堂書店1988</ref>。この車載客船の1隻が大雪丸であった。
 
大雪丸は、第1船の[[洞爺丸]]が[[三菱重工業|三菱重工神戸造船所]]で、第1船の[[洞爺丸]]が同造船所で進水したその日の [[1947年]](昭和22年)3月26日、同造船所で起工され、翌[[1948年]](昭和23年)10月25日竣工、同11月27日に青函航路に就航した。
 
大雪丸は[[三菱重工業|三菱重工神戸造船所]]で、第1船の[[洞爺丸]]が同造船所で進水したその日の [[1947年]](昭和22年)3月26日に起工し、翌[[1948年]](昭和23年)10月25日竣工、同11月27日に青函航路に就航した。
== 概要 ==
車載客船としての基本構造は[[1924年]](大正13年)に建造された[[翔鳳丸]]型に準じたもので、戦時中、博釜航路へ投入予定で設計されたH型戦時標準船[[石狩丸 (初代) |石狩丸(初代)]]の船体線図を一部修整のうえ使用し<ref>山本煕 車両航送p259 日本鉄道技術協会1960< name="koso259"/ref>、二重底に変更するなど平時仕様で建造された。垂線間長113.2mはH型船と同一で、[[翔鳳丸]]型に比べ、全長が約9m延長され118.7mとなり、総トン数も34003,400トン級から38003,800トン級へと大型化したが、新造時には船尾車両積込口装備開口した仕様のまま引き継がれなかった。
 
=== 船体構造 ===
旅客定員は新造時934名<ref>山本煕 車両航送 巻末表30 日本鉄道技術協会1960</ref><ref>航跡p273 国鉄青函船舶鉄道管理局1979</ref><ref>鉄道連絡船100年の航跡p341 成山堂書店1988</ref>と、翔鳳丸型と同等であったが、車両甲板両舷中2階の、翔鳳丸型では幅の狭い露甲板で、左舷のみ3等旅客に開放されていた下部遊歩甲板を拡幅し、舷側外板で囲い、大型の窓を多数設け、両舷とも3等船室とし、左舷には3等出入口、3等食堂、3等椅子席を、右舷には3等椅子席を設置した。車両甲板の車両格納所幅は、下部遊歩甲板拡幅のため翔鳳丸型より狭くなり、船内軌道を3線敷設できず、船尾端では1線、すぐ分岐し、車両甲板の大部分で2線平行となるよう敷設され、積載車両数は[[国鉄ワム60000形貨車|ワム]]換算18両と、翔鳳丸型より7両減であとなった<ref>鉄道技術発達史第6篇(船舶)p59 日本国有鉄道1958</ref><ref name="koso262">山本煕 車両航送p262 日本鉄道技術協会1960</ref>。しかし、[[1951年]](昭和26年)9月施行の規程では、既にワム換算積載車両数19両に改定されていた<ref>青函連絡船車両航送取扱手続 第5条 青函鉄道管理局報1951.8.29.</ref>。
車載客船としての基本構造は[[1924年]](大正13年)に建造された[[翔鳳丸]]型に準じたもので、戦時中、博釜航路へ投入予定で設計されたH型戦時標準船[[石狩丸 (初代) |石狩丸(初代)]]の船体線図を一部修整のうえ使用し<ref>山本煕 車両航送p259 日本鉄道技術協会1960</ref>、二重底に変更するなど平時仕様で建造された。垂線間長113.2mはH型船と同一で、[[翔鳳丸]]型に比べ、全長が約9m延長され118.7mとなり、総トン数も3400トン級から3800トン級へと大型化した。船尾の車両積込口は開口した仕様のまま引き継がれた。
 
3等船室はこのほか、翔鳳丸型同様車両甲板下の第二甲板のボイラー室と機械室の前後に畳敷き雑居室が設けられた。
旅客定員は新造時934名<ref>山本煕 車両航送 巻末表30 日本鉄道技術協会1960</ref><ref>航跡p273 国鉄青函船舶鉄道管理局1979</ref><ref>鉄道連絡船100年の航跡p341 成山堂書店1988</ref>と、翔鳳丸型と同等であったが、車両甲板両舷中2階の、
翔鳳丸型では幅の狭い暴露甲板で、左舷のみ3等旅客に開放されていた下部遊歩甲板を拡幅し、舷側外板で囲い、大型の窓を多数設け、両舷とも3等船室とし、左舷には3等出入口、3等食堂、3等椅子席を、右舷には3等椅子席を設置した。車両甲板の船内軌道は、船尾端では1線で、すぐ分岐し、車両甲板の大部分で2線平行となるよう敷設され、積載車両数もワム換算18両と、翔鳳丸型より7両減であった<ref>鉄道技術発達史第6篇(船舶)p59 日本国有鉄道1958</ref><ref name="koso262">山本煕 車両航送p262 日本鉄道技術協会1960</ref>。しかし、[[1951年]](昭和26年)9月施行の規程では、既にワム換算積載車両数19両に改定されていた<ref>青函連絡船車両航送取扱手続 第5条 青函鉄道管理局報1951.8.29.</ref>。
 
車両甲板天井に相当する上部遊歩甲板は、甲板室全周に遊歩廊が設けられ、その内側の甲板室の前方が個室寝台の1等船室区画で定員46名、その後方には、両舷にわたる1等出入口広間、その後方左舷側には1、2等食堂があっ配置された。食堂の右舷側は前後方向の通路兼用の喫煙室で、食堂との仕切りはガラス格子になっていた。食堂の後方は、開放2寝台室で定員30名開放2寝台が設置されその後方には両舷にわたる2等出入口広間と続き、その後方に定員194名のじゅうたん敷きの2等雑居室があっ配置されていた<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p121~126 成山堂書店1988</ref>。
3等船室はこのほか、翔鳳丸型同様に車両甲板下の第二甲板のボイラー室と機械室の前後に畳敷き雑居室が設けられた。
 
従来の青函連絡船同様、石炭焚きボイラーに蒸気タービン2台2軸を採用し、缶数も6に戻ったが、本船と[[羊蹄丸 (初代) |羊蹄丸(初代)]]では、乾熱室式円缶が調達できず、三菱式水管缶使用となった<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p285 成山堂書店1988</ref>。ボイラーからの煙路は[[第一青函丸]]以来の車両渡船同様両舷に振り分けたが、車両格納所が2線と狭いため、上部遊歩甲板の甲板室壁内に収まっていた。終戦後の粗悪炭使用を考慮し、煙道を太くしたこともあり、2列に並ぶ4本の煙突はわずかに後ろへ傾斜し、大きく立派なものとなったが、風圧面積を増加させる結果となった<ref name="koso262"/>。これにより、煙突は2列に並ぶ4本となり、堂々たる印象を与えた。
車両甲板天井に相当する上部遊歩甲板は、前方が個室寝台の1等船室区画で定員46名、その後方には、両舷にわたる1等出入口広間、その後方左舷側には1、2等食堂があった。この右舷側は通路兼用の喫煙室で、食堂との仕切りはガラス格子になっていた。食堂の後方は、開放2段寝台室で定員30名の2等寝台室、2等出入口広間と続き、その後方に定員194名のじゅうたん敷きの2等雑居室があった<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p121~126 成山堂書店1988</ref>。
 
=== 運航 ===
従来の青函連絡船同様、石炭焚きボイラーに蒸気タービン2台2軸を採用し、缶数も6台に戻ったが、本船と[[羊蹄丸 (初代) |羊蹄丸(初代)]]では、乾熱室式円缶が調達できず、三菱式水管缶使用となった<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p285 成山堂書店1988</ref>。ボイラーからの煙路は[[第一青函丸]]以来の車両渡船同様両舷に振り分けたが、車両格納所が2線と狭いため、上部遊歩甲板の甲板室壁内に収まっていた。終戦後の粗悪炭使用を考慮し、煙道を太くしたこともあり、2列に並ぶ4本の煙突はわずかに後ろへ傾斜し、大きく立派なものとなったが、風圧面積を増加させる結果となった<ref name="koso262"/>。これにより、煙突は2列に並ぶ4本となり、堂々たる印象を与えた。
==== 就航から洞爺丸事件まで ====
[[青森駅|青森]]-[[函館駅|函館]]間の所要時間は、[[1944年]](昭和19年)4月からの[[翔鳳丸]]型とほぼ同じ下り4時間30分、上り4時間40分とした。[[1948年]](昭和23年)[[11月27日]]の本船就航により、戦後建造に着手した車載客船4隻と車両渡船4隻全てが出揃った。こい、既に戦災復旧さていた[[第五青函丸#第六青函丸|第六青函丸]]も含め、車両航送のできる船は14隻となって、数の上では戦時中の12隻を超えた。しかし、事故や故障が頻発して休航も多く、[[1949年]](昭和24年)夏までは[[景福丸]] や[[徳寿丸]]も運航に加わっていた<ref>関釜連絡船史p158 国鉄広島鉄道管理局1979</ref><ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p66 成山堂書店1988</ref>
 
これより前の [[1947年]](昭和22年)10月からは[[LST-1級戦車揚陸艦|LST]]を含む諸船を含めて15往復運航であったが、[[1949年]](昭和24年)10月から旅客便5往復、貨物便13往復の計18往復となり、同年の貨物輸送量は350万トンを突破して、[[1943年]](昭和18年)の実績364万トンに迫るものであった<ref>青函連絡船史p239 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。
===運航===
[[青森駅|青森]]-[[函館駅|函館]]間の所要時間は、[[1944年]](昭和19年)4月からの[[翔鳳丸]]型とほぼ同様の、下り4時間30分、上り4時間40分とした。
[[1948年]](昭和23年)[[11月27日]]の本船就航により、戦後建造に着手した車載客船4隻と車両渡船4隻全てが出揃った。これで、車両航送のできる船は14隻となり、数の上では戦時中の12隻を超えた。しかし、事故や故障が頻発して休航も多く、[[1949年]](昭和24年)夏までは[[景福丸]] や[[徳寿丸]]も運航に加わっていた。
 
これより前の しかし、[[19471951年]](昭和2226)10)5月から[[LST-1級戦車揚陸艦|LST1953年]]を含む諸船を含(昭和28年)9月までは、たびたび出現する浮遊機雷への警戒のたて15往復、夜間運航の中止されることがあったが、以後は18往復に戻されていた<ref>青函連絡船史p201~203 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。それでも貨物輸送量は[[19491951年]](昭和2426)10月から旅客便5往復貨物便13往復の計18往復)には440万トンなり、同年戦時中貨物輸送量は350実績([[1944年]]385万トン突破して上回り旅客輸送人員も[[19431953年]](昭和1828年)には215万人と戦時中の実績364([[1943年]]210トンに迫るものであ人)を上回った<ref>青函連絡船史p225、p237、p239 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。
 
==== 洞爺丸事件後 ====
しかし、[[1951年]](昭和26年)5月から[[1953年]](昭和28年)9月までは、たびたび出現する浮遊機雷への警戒のため、夜間運航中止を余儀なくされることがたびたびあったが、以後は18往復に戻されていた<ref>青函連絡船史p201~203 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。それでも貨物輸送量は[[1951年]](昭和26年)には440万トンと戦時中の実績([[1944年]]385万トン)を上回り、旅客輸送人員も[[1953年]](昭和28年)には215万人と戦時中の実績([[1943年]]210万人)を上回っていた<ref>青函連絡船史p225、p237、p239 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。
[[1954年]](昭和29年)9月26日の[[洞爺丸台風]]では連絡船が5隻も沈没し、運航は翌9月27日、青森在港で難を逃れた[[羊蹄丸 (初代)|羊蹄丸]]による遅れ3便(青森第2岸壁7時55分発 函館第2岸壁12時25分着)と、[[石狩丸 (初代)|渡島丸(初代)]]による遅れ61便(青森第1岸壁8時30分発 函館第1岸壁14時10分着)から再開され、同日は更に[[第五青函丸#第十二青函丸|第十二青函丸]] による1202便(函館第1岸壁13時20分発 青森第1岸壁18時00分着)と、折り返し羊蹄丸による遅れ6便(函館第2岸壁17時03分発 青森第2岸壁21時34分着)の計2往復が運航された<ref>函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函航路運航成績表 昭和29年9月27日 国鉄青函鉄道管理局1954</ref>。9月28日には[[第五青函丸#第八青函丸|第八青函丸]]が変72便から、 [[第五青函丸#第七青函丸|第七青函丸]]が変64便から復帰し、[[石狩丸 (初代)|石狩丸(初代)]]も変80便から復帰し、上り8航海、下り5航海が運航された<ref>函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函航路運航成績表 昭和29年9月28日 国鉄青函鉄道管理局1954</ref>。9月29日には[[第五青函丸#第六青函丸|第六青函丸]]が変62便から復帰し、10往復の運航となった<ref>函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函航路運航成績表 昭和29年9月29日 国鉄青函鉄道管理局1954</ref>。
 
[[1954年]](昭和29年)910261には下関に係船されていた[[洞爺徳寿台風]]では連絡船 5隻も沈没青森へ回航され、3便(青森第2岸壁6時20分発 函館第2岸壁11時35分着)より就航し、9月28日には上り11航海、下り913航海を行い、が運航された<ref>徳寿丸 下関発9月2928から13往復、2時 青森着10月1日からは下関に係3時40分 日本海経由:函館市青函連絡中の[[徳寿記念館摩周]]  青函航路運航成績表 昭和29年9月28日~10月1日 国鉄青函鉄道管理局1954</ref><ref>[[1957年]]8月31日まで運航、9月13日広島鉄道管理局へ転属:青函連絡船史p203、p227、附表p10 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。10月8日には、洞爺丸台風で航行不能となり修理工事ため休航中であった大雪丸が3002便から復帰し<ref>函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函航路運航成績表 昭和29年10月8日 国鉄青函鉄道管理局1954</ref>、10月1310には[[浦賀船渠]]から戻った[[摩周丸 (初代)|摩周丸]]が22便から復帰<ref>函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函航路運航成績表 昭和29年10月10日 国鉄青函鉄道管理局1954</ref>、10月14日に[[室蘭港|室蘭]]または[[北九州港|戸畑]]から[[JR東日本川崎火力発電所|国鉄川崎火力発電所]]への石炭輸送に従事していた [[宗谷丸]]の助勤を得が貨物便102便より就航した<ref>10月10日芝浦出港 13日函館到着:函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函航路運航成績表 昭和29年10月10~14日 国鉄青函鉄道管理局1954</ref><ref>船艙積み貨物船とし使用:洞爺丸台風海難誌p242 国鉄青函船舶鉄道管理局1965</ref><ref>[[1954年]]12月25日広島鉄道管理局へ返還:青函連絡船史附表p10 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>10月1810より運航ダイヤ改正で、最大、旅客便5往復貨物便11往復の計16往復を開始しが設定された<ref>函館市青函連絡船史附表p10記念館摩周丸 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。更に急遽新造した車両渡船[[檜山丸 (初代)|檜山丸(初代)、空知丸(初代)]]の就により、[[1955年]](路運航成績表 昭和3029)101019日、10からは旅客便5往復貨物便13往復の計18往復に1往復の臨時便の設定となった<ref>青函連絡船史p203 国鉄青函船舶鉄道管理局19701954</ref>。
 
[[1955年]](昭和30年)9月には、急遽新造した車両渡船[[檜山丸 (初代)|檜山丸(初代)、空知丸(初代)]]が就航し、同年10月1日からは旅客便5往復、貨物便13往復の計18往復に1往復の臨時便の設定となった<ref>青函連絡船史p203 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。その後、[[1956年]](昭和31年)4月と8月には、洞爺丸台風で沈没後、浮揚修復した [[北見丸|日高丸(初代)]]、[[石狩丸 (初代)|十勝丸(初代)]]も復帰した。
 
[[1957年]](昭和32年)9月には[[徳寿丸]]が去り、10月には[[洞爺丸]]の代替船として建造した車載客船 [[十和田丸 (初代) |十和田丸(初代)]]が就航し、再び車両航送できる船14隻の体制に戻ったが、折りしも、[[なべ底不況]]で、しばらくこの便数に変化はなかった。なお[[1958年]](昭和33年)の貨物輸送量は439万トンに留まったが、旅客輸送人員は景気動向に関係なく263万人に増加した<ref>青函連絡船史p203~205、p227、p241 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。
 
==== 高度成長時代 ====
しかし[[1959年]](昭和34年)後半からは[[岩戸景気]]の影響で貨物輸送量が伸び、[[1961年]](昭和36年)夏には滞貨を擁する事態となり、この年の貨物輸送量は521万トン、旅客は319万人に達した<ref>青函連絡船史p227、p241、242 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。
 
このため、[[サンロクトオ|1961年]](昭和36年)10月1日ダイヤ改正]]では、連絡船の機関整備のための休航から休航までの間隔を延ばして運航数を増やす手法で<ref>青函連絡船史p220 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>、客貨便5往復、貨物便14往復計19往復に臨時便2往復と増発した。またこの改正では、[[函館駅|函館]]―[[旭川駅|旭川]]間に北海道初の[[特急]]「[[おおぞら (列車) |おおぞら]]」1往復が新設され、[[上野駅|上野]]発着の[[常磐線]]経由[[東北本線]]特急「[[はつかり (列車)|はつかり]]」、新設の[[大阪駅|大阪]]発着の[[日本海縦貫線]]特急「[[白鳥 (列車)|白鳥]]」と[[青函連絡船]]の深夜便を介して接続されることになり、下り1便では4時間25分、上り2便では4時間30分運航と、わずかながらスピードアップを果たした<ref name="jikokuhyo196110">日本国有鉄道監修時刻表第37巻10号p350、351 p358、359日本交通公社1961</ref>。
 
[[1964年]](昭和39年)5月10日には[[津軽丸 (2代)|津軽丸]]、8月12日には [[青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸|八甲田丸]]が就航し、本船は[[1964年]](昭和39年)8月31日、沈没を免れた洞爺丸型3隻の中で初にも早く終航を迎えた。
 
== 洞爺丸事件 ==
=== 洞爺丸沈没の原因 ===
船は強い風波に遭遇した場合、側面から風波を受けて横転する危険を回避するため、船首を風波の来る風上方向に向けるのが常である。このような場合、錨泊すれば、船首は自然と風上を向くため、[[洞爺丸台風]]当夜も、多くの青函連絡船が、錨泊して船首を風上に向け、錨ごと流されないよう、両舷の主機械を運転しつつ台風の通過を待った。このような体制でいれば、風下側の船尾開口部から、車両甲板上に海水が大量に浸入することはない、とそれまでの経験から、当時の関係者は考えていた<ref>古川達郎 連絡船ドックp61 船舶技術協会1966</ref><ref>田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p154 成山堂書店1997</ref>。
[[洞爺丸台風]]当夜の函館湾は波高6m、波周期9秒、波長約120mで、洞爺丸型の水線長115.5mよりわずかに長く、このような条件下では、前方から来た波に船首が持ち上げられたピッチング状態の、まさにそのとき、下がった船尾は波の谷間ではなく、谷の向こう側の斜面、つまり、その前に通り過ぎた波の斜面に突っ込んでしまい、その勢いで波は車両甲板船尾のエプロン上にまくれ込んで車両甲板に流入、船尾が上がると、その海水は船首方向へ流れ込み、次に船尾が下がっても、この海水は前回と同様のメカニズムで船尾から流入する海水と衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水が滞留してしまうことが、事故後の模型実験で判明した。そして、波周期が9秒より短くても長くても、車両甲板への海水流入量は急激に減ることも判明した。
 
[[洞爺丸台風]]しかし、当夜の函館湾は波高6m、波周期9秒、波長約120mで、洞爺丸の水線長115.5mよりわずかに長く、このような条件下では、前方から来た波に船首が持ち上げられたピッチング状態の、まさにそのとき、下がった船尾は波の谷間ではなく、谷の向こう側の斜面、つまり、その前に通り過ぎた波の斜面に深く突っ込んでしまい、その勢いで波は車両甲板船尾のエプロン上にまくれ込んで車両甲板に流入、船尾が上がると、その海水は船首方向へ流れ込み、次に船尾が下がっても、この海水は前回と同様のメカニズムで船尾から流入する海水と衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水が滞留してしまうことが、事故後の模型実験で判明した。そして、波周期が9秒より短くても長くても、車両甲板への海水流入量は急激に少なくなることも判明した。
しかし、洞爺丸型のような船内軌道2線の車載客船では、車両格納所の幅が車両甲板幅の約半分と狭いため、車両甲板船尾開口部から大量の海水が浸入しても、その滞留量は250トンとも360トンとも言われ<ref>360トン:古川達郎 連絡船ドックp63 船舶技術協会1966</ref><ref>250トン:田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p155 成山堂書店1997</ref>るが、この程度では転覆することはない、とされた<ref>古川達郎 連絡船ドックp68 船舶技術協会1966</ref>。しかし、石炭焚き蒸気船では、石炭積込口等、車両甲板から機関室への開口部が多数あり、これらの閉鎖が不完全で、滞留した海水がこれら開口部から機関室へ流入し、機関停止に至り、操船不能に陥ったことが[[洞爺丸]]沈没の要因とされた<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p318、319 成山堂書店1988</ref>。
 
しかし、[[洞爺丸]]のような船内軌道2線の車載客船では、車両格納所の幅が車両甲板幅の約半分と狭いため、車両甲板船尾開口部から大量の海水が浸入しても、その滞留量は250トンとも360トンとも言われ<ref>360トン:古川達郎 連絡船ドックp63 船舶技術協会1966</ref><ref>250トン:田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p155 成山堂書店1997</ref>とも360トン<ref>古川達郎 連絡船ドックP63 船舶技術協会1966</ref>とも言われているが、この程度では転覆することはない、とされた<ref name="dock68">古川達郎 連絡船ドックp68 船舶技術協会1966</ref>。しかし、[[洞爺丸]]は石炭焚き蒸気船で、石炭積込口等、車両甲板から機関室への開口部が多数あり、これらの閉鎖不完全で、滞留した海水がこれら開口部から機関室へ流入し、機関停止に至り、って操船不能となり、走錨もあって、船首を風上向けることができなくなったことが[[洞爺丸]]沈没の要因とされた<ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p318、319 成山堂書店1988</ref><ref>田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p76 成山堂書店1997</ref>。
 
=== 洞爺丸台風の夜の大雪丸 ===
当初は防波堤内で錨泊してこの台風をかわそうとしたが、他船、自船の走錨があり、避難船で輻輳する防波堤内では衝突の恐れが出たため、急遽防波堤外へ脱出して錨泊した。しかし、そこでも猛烈な波浪に翻弄され、走錨激しく、やむなく風に向かって船首を立て、蜘躊しつつ「南西の風は桶元へ行け」との経験則に従い木古内湾南端の桶元錨地を目指した。浸水による機関や舵の故障に見舞われながらも、乗組員の懸命の努力により桶元錨地手前の知内沖にたどり着き、沈没を免れることができた<ref name="tatakai14">台風との斗いp14、15 特定非営利法人語りつぐ青函連絡船の会2011</ref>。
 
このとき、大雪丸は、積載車両を降ろしており、その分喫水が浅く車両甲板位置が高く、海水の浸入が相対的に少なかった。そのうえ車両がなかったため車両甲板の開口部閉鎖作業に支障をきたすものがなかった等の幸運に恵まれた<ref>田中正吾 青函連絡船洞爺丸転覆の謎p81 成山堂書店1997</ref>。それでもボイラー室や機械室、操舵機室への浸水は少なくなく、潤滑油ポンプが故障し、主機も一時的に停止したほか、操舵機故障によ操舵不能で、両舷機事故は起き推力調節でかろうじ針路保持ができた。
 
=== 洞爺丸事件後の安全対策 ===
[[洞爺丸事故|洞爺丸事件]]の重大さに鑑み、運輸省は[[1954年]](昭和29年)10月に学識経験者による“造船技術審議会・船舶安全部会・連絡船臨時分科会”を、国鉄総裁は同年11月にやはり学識経験者による“青函連絡船設計委員会”を設置した<ref>古川達郎 連絡船ドックp63、64 船舶技術協会1966</ref>。これらの審議会では、青函連絡船の沈没原因と、その対策等が審議検討され、答申書が出された。それに従って、沈没を免れた連絡船も種々の改良工事を受けた。
 
[[1955年]](昭和30年)12月には下部遊歩甲板の角窓を水密丸窓として完全な予備浮力とし、照明を蛍光灯とした<ref name="renrakusenshi90">青函連絡船史p90 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。
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救命艇を吊り下げるボートダビットは、端艇甲板から救命艇を海面に降ろすとき、まず救命艇を手動で舷外へ振り出す操作が必要で、これでは人手と時間がかかり、非常時の間に合わないため、ブレーキを外すだけで、救命艇が自重で舷外へ振り出される重力型ボートダビットに交換された<ref name="dock132">古川達郎 連絡船ドックp132 船舶技術協会1966</ref>。
 
非常時に、車両甲板下の第二甲板の3等船室から上部遊歩甲板への脱出路となる階段は、従来は最も面積をとらないよう、各階とも同一場所に同一方向に設置されていたため、各階ごとに後ろへ回り込まなければ上がれなかったのを、階段配置が直線になるよう改造された<ref>古川達郎 連絡船ドックp130 船舶技術協会1966</ref><ref name="renrakusenshi90"/>。
 
車両甲板上の石炭積込口を含む開口部の敷居の高さを61cm以上とし、車両甲板上に大量の海水が浸入しても、直ちにその海水が機械室やボイラー室へ流れ込まないようにし<ref>山本煕 車両航送p292 日本鉄道技術協会1960</ref><ref>古川達郎 連絡船ドックp73 船舶技術協会1966</ref>、これらの部屋の換気口も閉鎖して電動換気とした。それまた主発電機(500kVA 2台)故障時伴い200kVA、推進補機、主要航海通信機器、非常灯電源を確保するため、蒸気タービン駆動200kVA補助発電機1台を追加設置した。これは通常は出入港時に無負荷運転して非常事態に備えたが、主発電機(500kVA 2台)との並列運転はできなかった。また、従来は機械室床下にあった発電機を床上に上げて、ビルジに浸からないようにした<ref>洞爺丸海難誌p254 国鉄青函船舶鉄道管理局1965</ref><ref>青函連絡船史p162 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。
 
[[1960年]](昭和35年)3月には、[[1957年]](昭和32年)建造の[[十和田丸 (初代)|十和田丸(初代)]]と同構造の船尾水密扉が設置された<ref name="dock68">古川達郎 連絡船ドックp68 船舶技術協会1966</ref><ref name="100nen322">古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p322 成山堂書店1988</ref>。この工事では、船尾扉設置位置をできるだけ船尾側へ寄せるため、甲板室後部端から船尾に至る船内軌道の“屋外”部分を鋼鉄製の“トンネル”で覆い、その後端に船尾扉を設置した。このため、車両甲板後端(エプロン甲板との段差)から船尾扉下端まで約2mと[[十和田丸 (初代)|十和田丸(初代)]]より約4mも船尾側に船尾扉を設置できたため、ワム換算積載車両数19両を維持できた。これに伴い、端艇甲板の船尾側を“トンネル”の上へ張り出し、“トンネル”上に組んだ櫓でこの部分を支え、後部操縦室(ポンプ操縦室)をその上に移した。
 
この工事では、無煙化と車両甲板面の一層の水密性向上を目指し、石炭積込口不要のC重油専燃式にボイラーを改造した。重油焚きでは石炭焚きに比べ1缶当たりの蒸発量が増大し、5缶で同等性能が確保されるため、右舷最後部の6号ボイラー1缶を撤去し、そのあとに燃料タンクを設置した<ref>青函連絡船史p166 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref><ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p289 成山堂書店1988</ref>。このとき外舷色は黒から[[十和田丸 (初代)|十和田丸(初代)]]に似た緑(10GY5“とくさ色”(10GY5/4)に変更された<ref>古川達郎 連絡船ドックp191 船舶技術協会1966</ref>。船尾水密扉設置により車両格納所容積も加算されて5855.01総トンとなった<ref>昭和20年代の改修工事で4341総トンになっていた:青函連絡船50年史p235 国鉄青函船舶鉄道管理局1957</ref>
 
== 青函航路終航後 ==
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== 沿革 ==
=== 青函連絡船時代 ===
* [[1947年]](昭和22年)[[3月26日]] - [[三菱重工業]]|三菱重工神戸造船所]]にて起工。
* [[1948年]](昭和23年)[[3月13日]] - 進水。
** [[10月25日]] - 竣工。
** [[11月27日]] - 就航。
** [[12月16日]] - [[洞爺丸]]型による1等寝台車([[国鉄マロネ40形客車|マイネ40形]])航送開始<ref name="saiken146">古川達郎 鉄道連絡船細見p146 JTBパブリッシング2008</ref>。
* [[1950年]](昭和25年)12月- レーダー装備([[舞鶴海軍工廠|飯野産業舞鶴造船所]])<ref>青函連絡船史p216 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref><ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p309 成山堂書店1988</ref>
* [[1951年]](昭和26年)5月18日- 浮遊機雷流入のため―[[洞爺丸]]型による寝台車航送休止<ref name="saiken146"/>。
* [[1954年]](昭和29年)9月26日- [[洞爺丸台風]]に遭遇
** :10:00  - [[青森港|青森]]を出港。
** :14:40  - [[函館港]]に到着したが、函館第1岸壁には[[洞爺丸]]着岸しており、第2岸壁では[[第五青函丸#第十一青函丸|第十一青函丸]]が着岸作業中のため防波堤外で錨泊待機<ref name="kainanshi67">洞爺丸海難誌p67 国鉄青函船舶鉄道管理局1965</ref><ref name="tatakai14"/>。
** :16:55  - [[函館港|函館第2岸壁]]に着岸<ref name="koso287">山本煕 車両航送p287、288 日本鉄道技術協会1960</ref>。
**:17:25  - 乗客と貨車を降ろし離岸<ref name="tatakai14"/>。
**:17:40  - 防波堤内に錨泊<ref name="kainanshi67"/><ref name="tatakai14"/>。
**:19:16  - 防波堤内は避難船で輻輳しており、イタリア船籍の修繕船アーネスト号(7341総トン)の走錨、自船の走錨もあり、防波堤外への脱出を決定、揚錨開始<ref name="koso287"/><ref name="kainanshi67"/>。揚錨中[[北見丸#日高丸|日高丸]]に接近<ref name="tatakai14"/>。
**:19:20  - 右舷錨が[[第五青函丸#第六青函丸|第六青函丸]] の左舷中央部に接触<ref>台風との斗いp18 特定非営利法人語りつぐ青函連絡船の会2011</ref>。
**:19:31  - 55mを超える暴風雨で防波堤灯台は消灯し、視界が利かないまま、レーダーに頼って防波堤外へ脱出<ref name="tatakai14"/>。
**:19:40  - 防波堤外に投錨<ref name="tatakai14"/>。
**:19:58  - 走錨激しく、北防波堤に接近したため、揚錨開始、車両甲板へ打ち込んだ海水はボイラー室前方に達した<ref name="koso287"/>、機械室では海水が夕立のように降り注いだ<ref>復刻・台風との斗いp59 特定非営利法人語りつぐ青函連絡船の会2011</ref>。
**:20:07  - 機関停止し1分ほどで回復揚錨完了後、蜘躊開始、桶元を目指す<ref name="koso287"/><ref name="tatakai14"/>。
**:20:30  - 錨泊中の[[北見丸]]に接近<ref name="tatakai14"/>。
**:20:10  - 葛登支岬灯台並航、風速40m、この時のプロペラ回転数150rpmで対地速力2ノット弱<ref name="tatakai14"/>。
**:21:40  - 操舵機室浸水のため操舵不能となり、以後両舷機を種々使用して針路維持<ref name="koso287"/><ref name="tatakai14"/>。
** :22:00  - 機関室排気口鉄フタ間隙より浸水し、潤滑油ポンプ故障、約5分間機関停止<ref name="koso287"/><ref name="tatakai14"/>。
**9月27日 0:10  - 木古内湾知内沖に投錨。沈没は免れたが航行不能となる<ref name="koso287"/><ref name="tatakai14"/>。
**:15:40  - 補助汽船「かつとし丸(初代)」の助けで操舵機室排水完了<ref>函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函航路運航成績表 昭和29年9月27日 国鉄青函鉄道管理局1954</ref>
**9月28日 6:05 - 抜錨、人力油圧ポンプ操舵で函館港外まで航海し、以後補助汽船「かつとし丸(初代)」と「おいわけ丸」曳航され8:35函館港内投錨<ref>「えさし丸」と「おいわけ丸」と記載されている:函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函航路運航成績表 昭和29年9月28日 国鉄青函鉄道管理局1954</ref><ref>「つとし丸」と「おいわけ丸」と記載されている:青函連絡船50年史p182 国鉄青函船舶鉄道管理局1957</ref><ref>青函連絡船史p466 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref>。 
**10月8日 - 3002便(函館3:50発 青森8:30着)から復帰<ref>函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函航路運航成績表 昭和29年10月8日 国鉄青函鉄道管理局1954</ref> 
* [[1955年]](昭和30年)12)[[12]] - 下部遊歩甲板 水密丸窓化 重力型ボートダビット装備([[三菱重工業|新三菱重工神戸造船所]])<ref name="dock132"/><ref name="100nen322"/>。
* [[1956年]](昭和31年)[[6月1日]] - 国鉄が1等を廃止したため、1等船室は2等A寝台に、2等寝台は2等B寝台となった<ref name="100nenshi191">北海道鉄道百年史(下巻)p191 国鉄北海道総局1981</ref>。
* [[1958年]](昭和33年)4月 ― 2等B寝台撤去し2等婦人雑居室とし、右舷下部遊歩甲板の3等椅子席の船尾部分を2等雑居室に改装<ref name="renrakusenshi90"/>。
* [[1958年]](昭和33年)[[4月]] - 2等B寝台撤去し2等婦人雑居室とし、右舷下部遊歩甲板の3等椅子席の船尾部分を2等雑居室に改装<ref name="renrakusenshi90"/>。
* [[1960年]](昭和35年)3)[[3]] - 船尾水密扉設置 ボイラー重油専燃化 6缶から5缶に 塗装変更([[川崎重工業|川崎重工神戸工場]])5855.01総トン<ref name="dock68"/> <ref>青函連絡船史p217 巻末附表p16 国鉄青函船舶鉄道管理局1970</ref><ref>古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p289 p322 成山堂書店1988</ref>。
**[[7月1日]] - 国鉄が、従来の2等を1等に、従来の3等を2等に呼称変更し、3等の呼称を廃止した<ref name="100nenshi191"/>。
* [[1961年]](昭和36年)[[6月28日]] - 1等出入口広間から喫煙所にかけての広間に1等指定椅子席としてリクライニングシート60席が設置された<ref name="renrakusenshi90"/><ref>古川達郎 続連絡船ドックp15 船舶技術協会1971</ref>。
**[[10月1日]] - 特急接続便の1便4時間25分運航 2便4時間30分運航<ref name="jikokuhyo196110"/>。
* [[1964年]](昭和39年)[[8月31日]] - 13便を以って青函航路での終航<ref>函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函航路運航成績表 昭和39年8月31日 国鉄青函船舶鉄道管理局1964</ref>
 
=== 終航後 ===
* [[19661964年]](昭和4139)2月)[[9月26]] - 三洋商事に売却<ref>北海道鉄道百年史[[巻p163 国鉄北海道総局1981</ref>関港|下関]]へ回航のため[[函館港|函館]]を出港<ref>函館市青函連絡船栄光の記念館摩周丸 青函跡p370路運航成績表 北海道旅客昭和39年9月26日 国鉄青函船舶鉄道株式会社1988管理局1964</ref>
** [[9月29日]] - 日本海経由で下関に到着<ref>函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函航路運航成績表 昭和39年9月28日 国鉄青函船舶鉄道管理局1964</ref>
* その後[[ギリシャ]]に売却。機関を[[ディーゼルエンジン|ディーゼル機関]]に換装されるなど大幅な改造が行われ、[[カーフェリー]]となり、「AEOLIS」に改称。[[エーゲ海]]で運用される。
* [[1966年]](昭和41年)2月9日 - 三洋商事に売却<ref>北海道鉄道百年史下巻p163 国鉄北海道総局1981</ref><ref>青函連絡船栄光の航跡p370 北海道旅客鉄道株式会社1988</ref>
* [[1977年]] ― キプロスに売却、「Sol-Phryne」に改称。
* その後[[ギリシャ]]に売却。を[[ディーゼルエンジン|ディーゼル機関]]に換装されるなど大幅な改造が行われ、[[カーフェリー]]となり、「AEOLIS」に改称。[[エーゲ海]]で運される。
* [[1988年]][[2月15日]] ― [[パレスチナ解放機構]]にチャーターされる。[[イスラエル]]の特殊部隊によって[[キプロス]][[リマソール]]で燃料タンクを爆破され航行不能となったが、後に復帰する。
* [[1977年]] - キプロスに売却、「Sol-Phryne」に改称。
* [[1991年]][[12月6日]] ― 運航中の火災により搭載車両に引火・爆発、[[アドリア海]]で沈没する。
* [[1988年]][[2月15日]] - [[パレスチナ解放機構]]にチャーターされる。[[イスラエル]]の特殊部隊によって[[キプロス]][[リマソール]]で燃料タンクを爆破され航行不能となったが、後に復帰する。
* [[1991年]][[12月6日]] - 運航中の火災により搭載車両に引火・爆発、[[アドリア海]]で沈没する。
 
== 外部リンク ==
* [http://www.shipspotting.com/gallery/photo.php?lid=893429 SOL PHRYNE - IMO 5349657](海外売却後の大雪丸の写真が掲載されている海外サイト。)
 
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== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
<references/>
 
{{青函連絡船の船舶}}