「ヴィクトル・セガレン」の版間の差分

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[[1908年]]、セガレンは当時の[[満州]]における[[ペスト]][[伝染病|伝染]]の被害者を治療するため、[[中国]]に向かうことになった<!--一応、このように訳しますが、後で加筆します。-->。[[1909年]]、海軍通訳生奨学生として中国に渡り<ref name="jca">[http://www.jca.apc.org/gendai/kikan/ekkyo/syokai/exotism.html <エグゾティスム>に関する試論/覇旅 著者紹介]</ref>、[[1910年]]には、妻や息子とともにそのまま中国に留まることを決意した。[[1912年]]に、[[北京]]で詩集『碑 (''[[:fr:Stèles|Stèles]]'')』の初版が出版された。セガレンは[[1914年]]に、[[漢]]王朝の墳墓の考古学調査を委託された。このときの彫像類についての研究成果『''Grande Statuaire chinois''』は、[[1972年]]まで公刊されなかった。セガレンは、著作を通して、ナイーフでエスノセントリック(自文化中心主義的)なエグゾティスム([[:fr:Exotisme|Exotisme]])のジャンルに、新たな視座をもたらしていた。
 
セガレンが中国で会った数少ないコーロッパ人のひとりが、[[ベルギー]]の中国研究家[[シャルル・ミシェル]]([[:fr:Charles Michel (sinologue)|Charles Michel]])で、その人物像は小説『''René Leys''』の主人公ルネ・レイスに投影されている。
 
セガレンは、[[1917年]]に帰国し<ref name="jca"/>、[[1919年]][[5月21日]]に、[[ブルターニュ]]の[[:en:Huelgoat|Huelgoat]]の森で亡くなった。手には『[[ハムレット]]』があったという。後にフランス政府は、[[パンテオン (パリ)|パンテオン]]の壁にセガレンの名を刻み「1914年から1918年の戦時にフランスのために命を捧げた作家」と記した<ref>[http://www.memoiredeshommes.sga.defense.gouv.fr/lib_memh/php/fiche_popup.php?_Base=MPF1418&_Lg=fr&_Fiche=mC+SVMZeegI6d3oGLGtWEQ==&_C=2988582297 fiche officielle].<br />「フランスのために命を捧げた ([[:fr:Mort pour la France|Mort pour la France]])」は、通常は軍関係者が戦死、ないし戦傷死、戦病死した場合に用いられる表現である。</ref>。