「島津忠国」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Hesolla (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
Hesolla (会話 | 投稿記録)
32行目:
[[宝徳]]2年([[1450年]])、かつて[[伊集院氏]]領であった石谷(現在の[[鹿児島市]][[石谷町 (鹿児島市)|石谷町]])が忠国から町田高久に与えられたことにより高久を一族の有力者であった[[伊集院煕久]]が一宇治城にて殺害した事件を発端として煕久を[[肥後国|肥後]]へ追放し居城の[[一宇治城]]を没収、改修し国内支配を安定させた。亡くなるまで家督を保ち続けたが、[[長禄]]3年([[1459年]])から嫡男の立久が忠国に代わって活動したため、薩摩南部に移り住んで文明2年(1470年)に没した。[[享年]]68。晩年は[[琉球]]への渡海を画策していたとされる。
 
没後、立久が後を継ぎ3ヶ国の守護となった。また、庶長子友久が[[相州家]]、3男久逸が[[伊作家]]、4男勝久はそれぞれ[[相州家桂氏]]、5男忠経が[[伊作家迫水氏]]、7男忠弘が[[喜入氏|島津系喜入氏]](肝付系喜入氏もある)、それぞれ祖となっている。このうち久逸の孫にあたる[[島津忠良]]が伊作・相州両家の家督を兼ね、やがてその系統が近世島津氏へと成長していくことになる。
 
墓は[[鹿児島県]][[鹿児島市]]の[[福昌寺 (鹿児島市)|福昌寺]]、鹿児島県[[南さつま市]]の坊津にある。