「松平頼儀」の版間の差分

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== 生涯 ==
[[寛政]]4年([[1792年]])、叔父の第7代藩主[[松平頼起|頼起]]の跡を継いだ。当初は緊縮財政を行っていたが、次第に奢侈に傾き、[[藩札]]の乱発により物価高騰と紙幣の価値低下([[インフレーション]])を起こした。また、殖産振興策にも失敗し、更に江戸屋敷が火災に遭ったり、屋島神社(讃岐東照宮)造営の建築費を支出するなどした結果、江戸・大坂の商人からの借財が50万両以上に達し、藩財政が破綻状態に陥った<ref>工藤寛正 編『徳川・松平一族の事典』東京堂出版、2009年</ref>。そのため、東浜の海岸一帯を埋め立てて問屋街を造ったり、「讃岐二白」と呼ばれる製塩と製糖の産業育成を行い、善政で知られるうなどした。就任中、16回の旱魃に遭う。文政4年([[1821年]])、婿養子の頼恕に藩主を譲り、隠居した。文政12年(1829年)死去。
 
== 脚注 ==
<references/>
 
{{水戸徳川家|[[高松松平家]]|1792年 - 1821年|第8代}}