「武水別神社」の版間の差分

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現在の社殿の多くは[[天保]]13年([[1842年]])の火災ののちに建てられたものである。本殿は、諏訪出身の立川和四郎(2代目)によって[[嘉永]]3年([[1850年]])に完成した<ref name="由緒書"/>。拝殿は立川和四郎の後見の下、峰村弥五郎により[[安政]]3年([[1856年]])に完成<ref name="由緒書"/>。なお、天保13年の火災を免れた社殿として[[摂社]]・高良社の本殿がある。
 
[[別当寺]]の更級八幡神宮寺は天台宗信濃五山の1つとされていたが、明治の[[廃仏毀釈]]の際に廃寺となった(月見の寺で名高い姨捨の長楽寺は江戸時代末の[[善光寺道名所図会]]には神宮寺の支院と説明されていた)。それまではこの神宮寺僧侶と神社神主によって全ての祭祀を共に行い、境内南半分に仏供所、高良社の向かい側に如法堂、手洗場付近に鐘楼、東側の総代開館には三重の塔があったと伝える。神宮寺廃止後の仏像仏具は上山田の東国寺に移され、釈迦堂は解体し筏に組んで千曲川を下り笹崎で陸揚げし、土口の正応寺本堂として再建されたという。
 
== 摂末社 ==