「スウェーデンの歴史」の版間の差分

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ナポレオン戦争以後は戦争に直接参加しなかったため、スウェーデンには平和が到来した。学芸と科学技術が大いに発展し、[[探検家]][[スヴェン・ヘディン|ヘディン]]、作家[[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ|ストリンドベリ]]、[[経済学者]][[クヌート・ヴィクセル|ヴィクセル]]、[[ダイナマイト]]の発明者で[[ノーベル賞]]の設立者[[アルフレッド・ノーベル|ノーベル]]などの偉人が現れた。また、[[鉱山学|鉱山学者]]・探検家の[[アドルフ・エリク・ノルデンショルド|ノルデンショルド]]は、[[1879年]]に[[北極海航路]]を制覇した<ref>武田、p194。</ref>。
 
[[1905年]]には平和裏にノルウェーの独立を認め<ref>百瀬、熊野、村井、pP279 - p282。</ref><ref>武田、p182 - p186。</ref>、さらに[[第一次世界大戦]]([[1914年]]にスウェーデン、ノルウェー、デンマークの北欧3国王は、[[マルメ]]において中立宣言を行った([[三国国王会議]])<ref>百瀬、熊野、村井、p310 - p313。</ref><ref>武田、『北欧の外交』、p27 - p35。国内世論上、親ドイツ的感情もあったが、政府は厳正中立を貫徹した。</ref>)、[[第二次世界大戦]]でも[[中立]]を維持した。第二次大戦中には、迫害されていた[[ユダヤ人]]の救出に尽力した[[ラウル・ワレンバーグ]]や、[[1945年]]の春に[[スウェーデン赤十字社]]とデンマーク政府協力して[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]から助け出されたユダヤ人を[[中立国]]のスウェーデンへ脱出させる[[白バス]]計画が実施された。
 
戦後は[[国際連合|国連]]に加盟し、国連の第2代[[国際連合事務総長|事務総長]]に[[ダグ・ハマーショルド|ハマーショルド]]を排出した。ハマーショルドは、[[第三世界]]の紛争の調停役となるなどしたが、[[冷戦]]ただ中の[[1961年]]に墜落死した(ハマーショルドは死後、[[ノーベル平和賞]]を授与された)。また国連の外交官には、スウェーデン王家であるベルナドッテ家の一員の[[フォルケ・ベルナドッテ]]もいたが、国連[[パレスティナ]]調停官に任命され、[[第一次中東戦争]]に赴いたが[[シオニズム|シオニスト]]の過激分子に暗殺された。スウェーデンに限らず、北欧諸国が国連において中立的克つ、人道的な姿勢をとったことは「北欧ブロック」と呼ばれ評価されている<ref>百瀬、熊野、村井、p394 - p395。</ref>。スウェーデンは戦後、北欧三国中立防衛同盟(スカンディナヴィア防衛同盟)を構想したが、第二次世界大戦期の中立政策の批判もあり、交渉は難航し、最終的に同盟は不成立に終わり、デンマークとノルウェーは[[北大西洋条約機構|NATO]]に加盟した<ref>百瀬、熊野、村井、p362 - p364。</ref>。また、[[ソ芬戦争]]におけるスウェーデンの中立は、フィンランドを失望させたこともあり、戦後はよりフィンランドに配慮するようになり、[[ソビエト社会主義共和国連邦|ソ連]]を刺激しないため、スウェーデンはNATOにも加盟せず、[[武装中立]]政策を推進した。こうした情勢の中で北欧は、[[ノルディックバランス]]の時代に入った<ref>百瀬、熊野、村井、p390 - p396。</ref>。