「信濃飯田藩」の版間の差分

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[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])、[[伊予国]][[大洲藩]]より[[脇坂安元]]([[脇坂安治]]の子)が5万5000石で入る。安元の後は[[脇坂安政]]が継いだが、[[寛文]]12年([[1672年]])に[[播磨国]][[龍野藩]]へ移封され、代わって[[堀親昌]]が[[下野国]][[烏山藩]]から2万石で入部した。しかし堀氏の藩政は財政窮乏により早くから不安定であり、藩財政は御用達から借り上げることによって賄われるという「御定借」体制であった。このため、[[宝暦]]12年([[1762年]])には藩政改革反対一揆、[[文化 (元号)|文化]]6年([[1809年]])にも同様の騒動が起きている。
 
第10代藩主・[[堀親しげ|堀親寚]]は[[水野忠邦]]の[[天保の改革]]で幕閣の一人となり、[[奏者番]]・[[寺社奉行]]・[[若年寄]]・[[老中]]などを歴任して7000石を加増されたが、水野失脚に伴い7000石は返上させられた収公の上、本高3000石も[[減封]]され、その分は[[白河藩]]領に加えられた。
 
また幕末期には、[[水戸藩]]の[[武田耕雲斎]]の[[天狗党]]に対して何の対処もとらず、清内路関所の通行阻止も懈怠したため、幕府から2000石を減封され、その分は[[旗本]]千村平右衛門の[[預地]]に加えられた<ref>『長野県史 通史編第5巻 近世2』</ref>。第11代藩主・[[堀親義|親義]]は、[[京都見廻役]]をつとめている。[[戊辰戦争]]では新政府に恭順した
 
[[明治]]4年7月、[[廃藩置県]]により廃藩となって[[飯田県]]、同年11月には[[筑摩県]]、明治9年([[1876年]])8月には[[長野県]]に編入された。