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'''伊東 甲子太郎'''(いとう かしたろう、[[天保]]5年[[12月3日 (旧暦)|12月3日]]([[1835年]][[1月1日]]) - [[慶応]]3年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]([[1867年]][[12月13日]]))は、[[新選組]][[参謀]]及び文学師範、のち[[御陵衛士]](高台寺党)盟主。[[諱]]は'''武明'''(たけあき)。幼名を祐之、初名は大蔵(大藏)。号は誠斎。変名は宇田兵衛。
名前については「
== 生涯 ==
=== 出自 ===
[[常陸国|常陸]][[志筑藩]]士(郷目付)
=== 新選組 ===
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=== 御陵衛士 ===
西国を遊説した後の[[慶応]]3年3月20日([[1867年]][[4月24日]])、[[薩摩藩]]の動向探索と御陵警備任務の拝命の名目に新選組を離脱し、篠原や鈴木など同志14名と共に御陵衛士を結成する。[[東山]][[高台寺]]の月真院に本拠を置いたため、[[高台寺党]]と呼ばれた。しかし、新選組内で失脚しつつあった[[武田観柳斎]]らの御陵衛士加盟の要望は拒絶している。この
=== 暗殺 ===
[[画像:伊東甲子太郎殉難の碑.jpg|200px|thumb|
[[近江屋事件]]
伊東は「奸賊ばら」と叫んで絶命したと伝わる。酒に酔わせたうえでの暗殺を企んだのは、北辰一刀流の道場主であった伊東の剣技を警戒したためと思料される。伊東の遺体は路上に放置され、御陵衛士を誘い出す
墓は、[[京都市]][[東山区]]の[[戒光寺]]。慶応4年([[1868年]])[[3月13日]]、御陵衛士により京都市[[下京区]]の[[光縁寺]]から改葬された。
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* 深川佐賀町の伊東道場は盛んで塾生や門下生も多く、小[[旗本]]程度の規模を誇ったとされる。
* 慶応3年(1867年)に4通の建白書を朝廷に提出している。[[大政奉還]]の行われた直後の3通目の建白書では、[[公家]]中心の新政府を作り、一和同心をスローガンに広く天下から人材を求め、畿内5ヶ国を新政府の直轄領とする、国民皆兵などを提唱している。また、1通目の建白書では[[神戸港|神戸]]開港反対を唱えていたが、3通目では「大開国、大強国」を唱え、積極的開国による富国強兵策に近い考え方を示している(ただし、神戸開港は孝明天皇の遺志に反するとしてあくまでも反対している。また、暗殺時の懐に5通目の草稿があり、同時代の記録によるとほとんど3通目の写しに近く、この案で近藤を説得しようとしていたと言われている。当時の一級資料「鳥取藩丁卯筆記」では、薩摩藩の[[吉井友実|吉井幸輔]]が越前藩の[[中根雪江]]に、この建白を「いちいち尤も」と言っていたと記されている)。この建白書を、[[松浦玲]]は「徳川家をも政権に参加させるという内容は[[坂本龍馬]]に近い穏健な思想で、公家をトップにすること、畿内5ヶ国を直轄領にすることなどは非常にユニークな意見である」と評している。また、[[市居浩一]]は「巷説、伊東が薩摩に通謀したと言われているのが全く誤りであることは、伊東と薩摩が連絡を取った証拠が皆無に等しいこと、この建白書の内容が薩摩の武力倒幕派と全く違う意見であることからも歴然としている」と指摘している。
* 伊東は新選組離脱後、同志に[[英語]]を学ばせている。
* 明治後、伊東暗殺の嫌疑により[[相馬主計]]が[[新島]]に[[流刑|流され]]ている。
* [[大正]]7年([[1918年]])に[[従五位]]を贈位され、[[昭和]]7年([[1932年]])4月には[[靖国神社]]へ合祀されている。
* 伊東の加盟を[[近藤勇]]は歓迎したが、[[土方歳三]]は策士として警戒したと伝わる。[[山南敬助]]の切腹に対し、伊東は4首の和歌を詠んでいる。
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