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のちに楼班が成長すると、峭王([[蘇僕延]])はその配下を取りまとめつつ、楼班を奉じて単于とし、蹋頓を王とした。蹋頓は策略をめぐらすことを好む人物であった。広陽の[[閻柔]]は若い時捕らえられて烏丸と[[鮮卑]]のもとに連れてこられたが、次第に異民族たちの崇敬を集めるようになっていた。そこで閻柔は鮮卑部族の力を借りて、[[護烏丸校尉]]の[[ケイ挙|邢挙]]を殺すと、自ら護烏丸校尉の官に就いた。袁紹はこれを利用し、閻柔を手厚く扱うことによって北辺の安定を計った。のちに袁紹の三男である[[袁尚]]が[[曹操]]に敗れて蹋頓のもとに逃げ込むと、蹋頓の力を頼んで[[冀州]]奪回を目論んだ。ちょうどその頃、曹操は[[河北]]を平定し、閻柔は鮮卑と烏丸を引き連れて曹操のもとに帰順した。そこで曹操は引き続いて閻柔を護烏丸校尉に任じ、漢の使節を与えて、以前どおり[[上谷郡]]寧城で職務にあたらせた。
 
[[建安 (漢)|建安]]11年([[206年]])、曹操は自ら[[柳城]]の蹋頓を撃った。秘密裏に軍勢を動かし間道を通ったが、柳城の手前100里余りの所で敵軍に発見された。袁尚は蹋頓とともに兵を率いて[[凡城]]に曹操を迎え撃ち、その兵馬ははなはだ盛んであった。曹操は小高い場所に登って、敵の陣営を見渡し、兵を出すのを抑えていた。敵に少し動きのあるのを見届けてから兵を動かし、敵兵を打ち破った。その戦闘の間に蹋頓の首を取り、死者は野を埋めた([[白狼山の戦い]])。速附丸,楼班,烏延らは遼東郡に逃げ込んだが、遼東郡の役所は彼らすべてを斬って、その首を駅馬で曹操のもとにもたらした。それ以外の散り散りに残った者たちもみな降伏した。これらの者たちを、[[幽州]]と[[并州|幷州]]で閻柔の配下にあった烏丸1万余りの落と一緒にし、部族を挙げて漢の内地に移住させた。彼らのうちの王侯や大人の指揮下にある異民族の兵士たちを統合し、[[曹操]]の軍に加わらせた。こうして三郡の烏丸は騎兵としての名が天下に聞こえた。
 
=== 魏の時代 ===