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[[画像File:Maréchal Louis-Alexandre Berthier, Prince de Neufchâtel et de Wagram, maréchal de France (1753-1815).jpg|right|thumb|250px|ベルティエの肖像]]
'''ルイ・アレクサンドル・ベルティエ'''(Louis Alexandre Berthier, [[1753年]][[2月20日]] - [[1815年]][[6月1日]])は、[[フランス第一帝政|フランス帝国]]の[[フランス元帥|元帥]]。副宮内長官。[[ナポレオン・ボナパルト]]の[[参謀長]]。ヌーシャテル大公、ヴァグラム大公。
 
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[ヴェルサイユ]]で工兵部隊 (Corps de genie) 司令官の[[庶子]]として生まれた。13歳で王立工兵学校に入校し、[[工兵]]としての知識を身に着けた後、17歳で軍に入隊した。[[アメリカ独立戦争]]では[[ジャン=バティスト・ド・ロシャンボー|ロシャンボー伯]]の麾下で派遣され、功績を上げて帰国後に大佐に昇進した。
 
[[フランス革命]]が勃発すると、国王ルイ16世によってヴェルサイユ国民衛兵の参謀長に任命され、同時に少将に昇進した。1791年にはルイ16世の叔母の国外逃亡を手助けしている。こうした王との深い関係のため、[[8月10日事件]]後、軍務を解任された。しかし、[[フランス革命戦争]]が進行中であり、有能な士官が求められていたため、まもなく復帰した。はじめ[[ニコラ・リュクネール]]元帥の参謀長に任命され、その後、[[{{仮リンク|シャルル・フランソワ・デュムーリエ|label=デュムーリエ]]|en|Charles François Dumouriez}}、[[フランソワ・クリストフ・ケレルマン|ケレルマン]]の下で働いた。
 
=== ナポレオンの参謀長 ===
1796年、イタリア方面軍に派遣され、[[ナポレオン・ボナパルト]]の参謀長となった。彼は正確かつ迅速に軍務をこなした。また、指揮官の命令を深く理解し、それをより良い形で各部隊に伝達し、指導する能力に長けていた。ナポレオンは彼を理想的な参謀長として高く評価した。
 
[[イタリア遠征]]に従事し、[[ロディの戦い]]などで功績を上げた。1797年に[[カンポ・フォルミオ条約]]が締結されると、総裁政府に条約を承認させるためにパリに派遣された。1798年、イタリアに戻って[[ローマ共和国 (18世紀)|ローマ共和国]]の建国を指導し、続いて[[エジプト遠征]]に従事した。1799年、ナポレオンとともにフランスに帰国。同年11月9日の[[ブリュメールのクーデタ]]に関与し、陸軍大臣となった。1800年、ナポレオンは再びイタリアに遠征、6月14日、[[マレンゴの戦い]]で勝利した。この戦いにおいては予備軍の指揮を任されたが、実際にはナポレオンの参謀長として立ち働いた。その後、和平条約締結の責任者となった。
 
ナポレオンが皇帝に即位すると直ちに帝国元帥に列せられた。その後の諸戦争にも参加し、1806年にヴァランジャン公爵、ヌーシャテル大公爵に叙せられ、1807年には帝国副宮内長官、[[護憲元老院|元老院]]議員に任じられた。[[半島戦争]]および対オーストリア戦争にも従事し、ヴァグラム大公爵に叙せられた。1808年には[[バイエルン国王|バイエルン王]][[マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン1世]]の姪[[マリア・エリーザベト・イン・バイエルン|マリー・エリザベート・ド・バヴィエール]](1784年 - 1849年)と結婚し、3人の子供をもうけた。
 
=== ナポレオンとの決別 ===
[[ロシア遠征]]は、ベルティエにとっても、ナポレオンにとっても転機となった。[[ボロジノの戦い]]における作戦会議で、両者の意見は食い違い衝突した。これ以降、ナポレオンは彼を遠ざけるようになった。それでもナポレオンに従い続け、帝国が崩壊していく中でも参謀総長としての義務を果たし続けた。
 
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ただ、ベルティエは非常に自分の権能に固執する人物でもあったらしく、同僚との衝突も多かった。特に[[ルイ=ニコラ・ダヴー|ダヴー]]とのいさかいは戦役そのものを破綻させかけている(このとき、ダヴーが立案した戦力配置を参謀長の権限をたてに台無しにし、すんでのところで駆けつけたナポレオンが再修正して事なきを得ている。この時ナポレオンはベルティエを厳しく叱責するとともに、ダヴーの措置を激賞している)。<!-- どの戦役の話? -->また、ネイが見出した兵学者[[アントワーヌ=アンリ・ジョミニ|ジョミニ]]を自分の地位を脅かす者と捉えて冷遇し、憤ったジョミニはロシア軍に身を投じてしまっている。
 
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[[Category:フランス第一帝政の元帥]]