「メーヌ・ド・ビラン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Rezett (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
編集の要約なし
21行目:
| website = <!-- {{URL|example.com}} -->
}}
'''フランソワ=ピエール=ゴンティエ・メーヌ・ド・ビラン'''('''François Pierre Gontier Maine de Biran'''、[[1766年]][[11月29日]] - [[1824年]][[7月20日]])は、[[フランス]]の[[哲学者]]、[[政治家]]。単純に「メーヌ・ド・ビラン」として知られる。
 
== 人物 ==
[[フランス]]南部の[[ベルジュラック]]出身。1784年に[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]の近衛兵となり、[[フランス革命]]初期の1789年10月には[[ヴェルサイユ宮殿]]で国王を護衛した。1797年以降、[[五百人会]]議員、[[立法院 (フランス)|立法院]]議員、[[フランス学士院|学士院]]会員等を歴任した。
[[フランス]]南部の[[ベルジュラック]]出身。
 
この間、[[観念論]]の立場から認識に対する研究をはじめたが、[[唯心論]]者となる。晩年は[[神秘主義]]にも接近している。
 
内省的方法による感覚知覚を考察し、意識の本質を探究。「精神の生」なる概念を提示している。