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中国においては[[隋]]の時代には按摩は独立した専門科として扱われるようになった。当時の医師達は按摩を「外邪の滞留を体内から除き、負傷によって体内に侵入する事を防ぐ」方法として内科・外科・小児科を問わずに行われた。朝廷内でも按摩博士、按摩師、按摩生が設置された。[[北宋]]以後においては、按摩の理論的な発展が見られ、『[[宋史]]』芸文志によれば按摩の専門書が書かれたとする記事がある(但し、現存せず)。[[明]]以後には医学における按摩行為を特に「'''推拿'''(すいな)」とも称されるようになった。
 
[[File:Ijl no3 1906 3ed 10 amma-1.jpg|thumb|right|明治時代の按摩師]]
日本には[[養老令]]において、[[唐王朝]]をまねて[[典薬寮]]に、按摩博士、按摩師、按摩生をおいたとされる。この養老令は大宝令と全く同様のものとされるため、少なくともその時代には按摩が存在したと思われる(ただし、法制だけを継受しただけで、実際に古代日本に按摩そのものが伝来したか疑問視する見方もある<ref>丸山裕美子「按摩」『日本史大事典 1』(平凡社)</ref>)。しかし、その当時の按摩と現在のものが、どのような類似性があるのかは不明である。ただ、同時代の文献によると、当時の按摩には現在でいう包帯法も含まれていたと考えられる。
 
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日本において按摩が本格的に興隆するのは江戸時代に入ってからである。[[宮脇仲策]]『[[導引口訣鈔]]』や寛政11年(1799年)[[藤林良伯]]『[[按摩手引]]』、文政10年(1827年)[[太田晋斎]]『[[按腹図解]]』などにより、按摩は体系付けられた。特に『按腹図解』の中の『家伝導引三術』では「家法導引の術に三術あり」として「解釈、利関、調摩」というそれぞれ「揉捏法、運動法、軽擦法」の基礎になっている術が記載されている。按摩は視力を必要としないために盲人の職業として普及した。
[[File:Ijl no3 1906 3ed 10 amma-1.jpg|thumb|right|明治時代の按摩師]]
File:Adolfo Farsari - Blind Shampoonier.JPG|盲人の按摩風景
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日本において按摩が本格的に興隆するのは[[江戸時代]]に入ってからである。[[宮脇仲策]]『[[導引口訣鈔]]』や[[寛政]]11年(1799([[1799]])[[藤林良伯]]『[[按摩手引]]』、[[文政]]10年(1827([[1827]])[[太田晋斎]]『[[按腹図解]]』などにより、按摩は体系付けられた。特に『按腹図解』の中の『家伝導引三術』では「家法導引の術に三術あり」として「解釈、利関、調摩」というそれぞれ「揉捏法、運動法、軽擦法」の基礎になっている術が記載されている。按摩は視力を必要としないために盲人の職業として普及した。
 
按摩の[[流派]]には、江戸期の関東において[[征夷大将軍|将軍]][[徳川綱吉]]の病を治したと伝えられている[[杉山和一]]を祖とする[[杉山流按摩術]]<ref>遠藤元男「按摩」『日本史大事典 1』(平凡社)</ref>と[[吉田久庵]]を祖とする[[吉田流按摩術]]<ref>西山松之助「按摩」『国史大辞典 1』(吉川弘文館)</ref>が知られるようになる。杉山流は祖である杉山和一が盲目の鍼医であったこともあり盲目の流派として、これに対して吉田流は晴眼の流派として知られた<ref>加藤康昭「按摩」『日本歴史大事典 1』(小学館)</ref>。一方、関西ではこのような流派はない。
 
『[[守貞謾稿]]』によれば、流しの按摩が小笛を吹きながら町中を歩きまわって町中を歩いた。京都・大坂では夜だけ、江戸では昼間でも流す。小児の按摩は上下揉んで24[[ (通貨単位)|文]]、普通は上下で48文、店を持って客を待つ足力(そくりき)と呼ばれる者は、固定客を持つ評判の者が多いために上下で100文が相場であったと言う(ただし、足力は江戸のみで京都・大坂には存在しない)]]<ref>遠藤元男「按摩」『日本史大事典 1』(平凡社)・西山松之助「按摩」『国史大辞典 1』(吉川弘文館)・加藤康昭「按摩」『日本歴史大事典 1』(小学館)</ref>。
 
[[GHQ]]は「按摩・[[鍼灸]]は非科学的であり、不潔だ」として按摩・鍼灸を禁止しようとした。これに対し、業界や視覚障害者などは約60日に渡る猛抗議を行った。その和解案として[[あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律]]が作られた。