「京極為兼」の版間の差分

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正和4年([[1315年]])12月28日、得宗身内の東使安東重綱(左衛門入道)が上洛し、軍勢数百人を率いて毘沙門堂の邸(上京区毘沙門町)において為兼を召し捕り、[[六波羅探題]]において拘禁する。翌正和5年([[1316年]])正月12日には得宗が守護、安東氏が守護代であった[[土佐国]]に配流となり、帰京を許されないまま[[河内国]]で没した。2度の流刑の背景には「[[徳政]]」の推進を通じて朝廷の権威を取り戻そうとしていた伏見天皇と幕府の対立が激化して、為兼が天皇の身代わりとして処分されたという説もある。
 
家風は実感を尊び、繊細で感覚的な表現による歌を詠み、沈滞していた鎌倉時代末期の歌壇に新風を吹き込んだ。『[[玉葉和歌集]]』『[[風雅和歌集]]』に和歌が入集している。なお[[歌論書]]としては[[為兼卿和歌抄]]が知られる。
 
== 伝記 ==