「長州征討」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
40行目:
このとき征長軍に参加して萩口の先鋒を任されていた[[薩摩藩]]は独自の動きを見せた。福岡藩士の喜多岡勇平、薩摩藩士の高崎兵部([[高崎五六]])は9月30日に岩国新湊に入った。[[岩国藩]]の[[吉川経幹]](吉川監物)と薩摩藩は征長における交渉に入った。10月21日、高崎兵部は岩国へ宛てて、薩摩藩は長州藩のために尽力するが暴徒を処罰し、黒白を明らかとして、悔悟の念を明らかとするのが肝要である。また[[三条実美]]ら五卿(以下、五卿と記す)の追放、時と場合によっては藩主親子が総督府の軍門に自ら出てくる必要があるが、まずは安心してよいという内容の手紙を送った。手紙には高崎は京都で留守番をするが[[西郷吉之助]]が征長軍で交渉を担当するため、遠からず岩国に入るかもしれないと書かれている。
 
10月24日、大坂において薩摩藩の西郷吉之助は徳川慶勝へ長州藩降伏のプロセスについて腹案をのべた。慶勝はその場で西郷へ脇差一刀を与えて信認の証とした。西郷は征長軍全権を委任された参謀格となった。'''徳川慶勝と西郷吉之助は総督府を幕府の統制下より離れさせ寛典論に基づく早期解兵路線へ「独走」させた。'''11月4日、征長総督の命令により親友の[[税所篤|税所喜三左衛門]]、[[吉井友実|吉井仁左衛門]]を伴い岩国へ入った西郷吉之助は吉川経幹と会談。2日前に、吉川経幹は総督府へ禁門の変で上京した[[国司親相]]、[[益田親施]]、[[福原元たけ|福原元{{CP932フォント|僴}}]]の三家老切腹、四参謀斬首、五卿の追放の降伏条件で開戦の開始を猶予するように請願していた。西郷との会談後、吉川経幹は長州藩へむけて家老切腹、参謀斬首を催促をした。11月11日、[[徳山藩]]において国司親相と益田親施が、11月12日に岩国藩において福原元{{CP932フォント|僴}}が切腹。11月12日、四参謀も[[野山獄]]で斬首された。
 
11月16日、広島国泰寺において征長軍総督による三家老の首実検が行われた。征長側は総督名代の[[成瀬正肥]]、大目付の[[永井尚志]]、軍目付の[[戸川安愛]]。長州側は吉川経幹、志道安房。参謀の[[辻将曹]]と西郷吉之助は次室に控えていた。『征長出陣記』は、永井尚志は藩主親子を面縛(後ろ手で罪人として引き渡す)、萩の開城を通告した。吉川経幹は顔面蒼白となり「この上はよんどころなく死守」と防長士民は徹底抗戦すると回答。永井尚志より諮問された西郷は永井案の再考を提案した、と記録されている。11月18日、征長軍から吉川経幹へ「藩主親子からの謝罪文書の提出、五卿と附属の脱藩浪士の始末、山口城破却」の命令が出された。総督府の降伏条件は寛大として副総督府のある小倉にいた松平茂昭や越前藩、九州諸藩より不満があがったため西郷は11月21日の晩に広島を発して11月23日の昼に小倉に入り説得を行った。
 
12月5日、長州藩より総督府へ藩主親子からの謝罪文書が提出された。残りの降伏条件は五卿と山口城だが、山口は城ではなく館であり形式的な条件<12月19日、巡検使の[[石川光晃]]、戸川安愛が巡視した際も指摘はなかった>で、残っているのは五卿問題だけとなった。12月1日、[[福岡藩]]の越智小平太、真藤登、喜多岡(北岡)勇平が長府(現在の下関市長府)の五卿を訪れ、朝廷及び幕府の命令により九州の五藩が五卿を預かるという申し入れをした。12月3日、福岡藩の[[月形洗蔵]]は三条実美と面会したが、三条実美は勅命であれば進退はやむを得ないが附属する諸隊及び脱藩浪士は反対し騒擾が起きる可能性があると語った。
 
諸隊とは[[奇兵隊]]、遊撃隊、八幡隊、御楯隊、南園隊など藩の正規兵と異なる軍隊であり、また政治集団、党派としての意味合いを兼ねていた。その指揮系統は軍隊だが、意思決定は幹部より構成される諸隊会議所が合議の上で決める仕組みである。
 
12月11日、西郷は[[馬関海峡]]を越えて長府に入り運動中の月形らと面会。当日に小倉へ戻った。西郷の渡海により長州藩内の紛争が解決次第、五卿は筑前へ移転すると決定。降伏条件の道筋がつき征長軍は解兵へ歩みをすすめた。長州藩内の紛争とは長府の諸隊と萩藩庁の対立である。萩藩庁と小倉の征長軍(その数は数万とされた)に挟まれた諸隊のために、奇兵隊総督の[[赤根武人]]は周旋に動いていた。これに対して12月13日夜、[[高杉晋作]](奇兵隊の初代総督)は長府の諸隊長官に対して赤根の融和策を非難し、即時挙兵を主張したが応じる者はいなかった。この席で高杉晋作は市民兵の諸隊に向かって「赤根武人は大島の土百姓である」と発言したと記録されている。
 
=== 長州藩の動き ===
7月21日、[[国司親相]]、[[益田親施]]、[[福原元たけ|福原元{{CP932フォント|僴}}]]の三家老につづいて京へ向かった毛利定広が讃岐国多度津で[[禁門の変]]の敗戦を聞き山口へ向けて引き返した。27日、三田尻(現在の防府市)において藩主親子、三支藩藩主、老臣が善後策を協議した。30日、敬親は山口に戻り人心を落ち着かせて吉川経幹に対外的な周旋を頼んだ。また山口政庁は三家老の職をとき禁門の変の顛末を誰問の上で徳山藩に預けて謹慎させた。
 
[[八月十八日の政変]]の後と同様に藩政を誤らせた正義派へ俗論党は反発を強めた。前回は萩から山口へ[[椋梨藤太]]、[[村岡伊右衛門]]が出てきて、[[毛利登人]]、[[前田孫右衛門]]、[[周布政之助]]を免職させたが奇兵隊という武力を背景とした高杉晋作がひっくり返して、逆に[[坪井九右衛門]]は切腹させられた。今回は俗論党の影響下にある先鋒隊の壮士たちが続々と山口へ入った。9月6日に吉川経幹が山口に入ると8日に奇兵隊を含む諸隊は吉川経幹と接見、上申書を奉じ幕府への武備恭順を迫った。これに対抗して20日に萩藩士100名以上が山口にのぼった。山口藩庁は暴発を避けるため城代の毛利将監、目付の村尾治兵衛より慰撫しようとしたが果たせず22日、萩側は吉川経幹へ幕府への謝罪恭順を通すように迫った。吉川経幹はこれを慰撫して藩内の騒動を収め同日に毛利敬親へ告げその場で城代と目付は吉川経幹の労に謝したが山口側は萩側の圧力を無視できなくなった。
 
9月24日、[[井上聞多]]は藩主親子へ[[君前会議]]において藩是を定めることを提言。井上は萩の強硬派はいざとなれば自らが代官をつとめる小郡の民兵を使って片付ける目算を立てていた。9月25日、[[山口政事堂]]で君前会議がひらかれ井上は熱弁をふるい会議の最後に敬親は武備恭順を国是とすると言明して終わった。25日、井上は政事堂よりの帰り道、袖解橋の手前で刺客に襲われた。同日、周布は自殺した。9月30日、加判の[[清水清太郎]]は知行地にもどり閉居した。
62行目:
 
=== 元治の内乱と征長軍の解兵 ===
12月8日、奇兵隊総督の赤根武人は萩より長府へ帰り萩政庁と諸隊の調和により事態を転回させる調和論<正邪混和説>を説いたが諸隊の多くは賛同せず、同日、奇兵隊の実権を握っていた軍監の[[山県有朋]]は萩政庁へ反対の意見書を提出した。11月25日、高杉晋作は九州より下関へ帰った。長府で即時挙兵を説いたが山縣を含めた諸隊は同調しなかった。12月13日夜、高杉晋作は諸隊の長官へ説得。忠誠公勤皇事蹟には「悲憤慷慨の言を吐き、或は怒り、或いは泣て、長官等を感動せしめんと力めましたけれども、長官等は高杉晋作の気焔に圧倒せられたるのみにて、誰れ一人として」決起する様子は見えなかったとある。
 
12月15日深夜、大雪の中、長府に集まった高杉晋作と力士隊(総督は[[伊藤博文|伊藤俊輔]])、遊撃隊(総督は[[河瀬真孝|石川小五郎]])は功山寺に赴いて五卿に面会、その後下関に入った。
 
12月16日、藩内クーデタの勃発に萩政庁は諸隊を敵として協力を禁じる布告を出した。12月18日、諸隊は伊佐へ出陣。萩藩庁は毛利登人、大和国之助、前田孫右衛門、渡辺内蔵太を含む七名を12月18日、野山獄へ投獄。19日、斬首。清水清太郎は12月25日、切腹。両者の対立はようやく先鋭化した。肝心の高杉晋作は三田尻で奪った軍艦を萩へ向かわせたが下関にいた。山県有朋は諸隊より遅れて出発。さらに剃髪をした。融和論に静観の形で同調の姿勢を見せていた諸隊に裏切られた赤根武人は下関を出奔した。
 
12月28日、下関の遊撃隊討伐を目的として萩を上発した討伐軍の先鋒は[[秋吉台]]の北東の盆地の絵堂に入った。台地南西の伊佐にいた諸隊は、1月6日深夜に山道を越えて絵堂に入り討伐軍を襲撃、朝までに同地を占領した。諸隊は数で劣勢のため絵堂は放棄して南進、[[大田川]]流域の大田(秋吉台の南東)に出た。討伐軍は秋吉台と[[権現山]]の間を通じる本道の大田街道、権現山東縁を流れる大田川沿いの谷間道(川上口)を南下すると予測した諸隊は本道には八幡隊、膺懲隊、本道左は南園隊、本道左の高台にある鳶の巣は御盾隊を、狭い川上口は奇兵隊を、本道と川上口が合流する大田勘場(役所)に本陣を置きV路上に陣地を形成した。
72行目:
1865年1月10日、討伐軍は本道を攻めつつ、主力を川上口にまわした。奇兵隊の指揮官だった[[三好軍太郎]]は敵の急襲に支えられず退却した。本営の金麗社にいた山縣狂輔は狙撃隊をつれてV路上の真ん中にある竹薮の中を進み左翼より敵を狙撃させた。山縣は川上口を支えるように厳命を下すと、奇兵隊の別隊長である[[湯浅祥之助]]の隊を横撃させた。湯浅隊は大田街道右側の小山を駆け下りて敵の側面より攻撃し撃退した。この際に[[鳥尾小弥太]]、[[山田鵬介]]の両伍長が活躍を見せた。1月14日、今度は本道の[[呑水峠]](のみずたお)で大規模な戦闘となった。午前10時より午後2時まで戦った末に敵を撃退した。高杉晋作は遊撃隊を率いて1月15日、諸隊に合流した。また1月12日には[[太田市之進]]の御盾隊も小郡から帰還した。1月16日、絵堂の西にある赤村を夜襲した諸隊は秋吉台周辺より敵を撃退した。
 
毛利敬親の諮問をうけた[[毛利元純]]が諸隊へ接触を図ろうとしたことより萩の動揺を察知した高杉晋作は諸隊に向かって[[明木]]の討伐軍本営を衝くべきと主張したが、狭い山道を進むよりも山口に向かおうとした山縣狂輔は太田市之進(御盾隊)、[[福田侠平]](奇兵隊)、[[堀慎五郎]](八幡隊)を集めて「もし諸君が明木に進軍するつもりなら私も異論はないが、それならば私を先鋒にしてもらいたい」と発言した。高杉晋作は意見を撤回して諸隊は山口へ入った。1865年1月16日、萩城に毛利将監以下の諸士が登城した。毛利敬親に拝謁した一同は諸隊を武力で征討する不可を上申した。正義派にも俗論党にも組しない中立派は「鎮静会議員」と称し運動を始めた。一方で毛利元純は諸隊との休戦工作のため、1月21日、萩と山口を結ぶ往還の集落、[[佐々並]]において諸隊と協議した。毛利元純は双方が萩と山口へ撤退する方針で打診したが諸隊は拒否。1月28日までの休戦協定が結ばれて会見は終わった。1月23日、萩より討伐軍に対して撤退命令が出された。2月10日、山口を訪れた鎮静会議員3名が帰路の明木で俗論党(選鋒隊)により暗殺された。諸隊の仕業であると誣告する俗論党への排斥運動は高まり、一方で処罰された正義派への大赦が続いた。2月14日、奇兵隊、八幡隊は[[東光寺]]に、御盾隊は[[大谷]]に入り、15日には[[玉江]]へ遊撃隊が入り、[[癸亥丸]]は海岸に近づいて再び空砲を鳴らしつづけた。2月14日、椋梨藤太は萩より逃亡したが津和野で捕縛された。長州藩の内訌戦は正義派の勝利に終わった。
 
12月27日、征長軍は解兵令を発した。翌年の1月5日、幕閣は徳川慶勝へ藩主親子及び五卿を江戸まで拘引せよとの命令書を与えた。命令書を受け取った慶勝は征長について将軍より全権を委任され、降伏条件と解兵は総督府を通じて幕府へ報告した。命令の実行は解兵した現在では不可能であると断って、その上で処罰をうけるなら受け入れると回答した。幕府は長州処分は江戸で行うため慶勝は京都に入らず上府するように命令したが、朝廷も慶勝へ上洛せよとの命令を出した。板ばさみのため、1月16日に大坂に着いた慶勝は所労と称して滞坂することにした。
82行目:
大政委任を確認した元治国是は長州処分を幕府の専権事項に含んだが、朝廷も国事に関して幕府諸藩へ命令を出すことができるとした。朝廷、幕府、諸藩のパワーバランスの上に成り立つ体制下では大政委任が空文化する恐れもあった。[[一橋慶喜]]、[[松平容保]]は[[大奥]]や保守派大名の影響力が大きい江戸城から将軍を引き離し、畿内長期滞在態勢で公武一和を推進しようとした。しかし幕閣は第一次長州征伐のあと[[フランス]]の後押しもあり強硬な姿勢をとり、朝廷からの再三の上洛要請も遷延策で無視をした。長州処分も諸藩を動員し長門周防を取り囲めば藩主親子は自ら出頭してくるとの見込みであり、最終処分案は1866年1月21日まで決まらないまま事態は推移した。
 
復古派の幕閣に対して勤皇諸藩は朝廷を以て幕府を制し挙国一致の体制を志向した。憂慮した松平容保は自ら江戸にでて将軍上洛運動を起こそうとしたが2月5日に[[阿部正外]]、7日に[[本荘宗秀]]の両老中が幕府歩兵を率いて上洛したことで容保の東下は中止となった。老中の[[松前崇広]]よりの内報では、阿部本荘正外・宗秀の目的は将軍上洛の中止と一橋慶喜、松平容保、[[松平定敬]]を京都より追い出すことにあると知らされた。2月22日に参内した両老中は目的を達せずに[[二条斉敬]]の叱責をうけた。2月23日、阿部正外は将軍上洛のために江戸へ帰らされ、本荘宗秀は摂海警備のために大坂表へ向かわされた。
 
一方で2月7日に上京した[[大久保利通|大久保一蔵]]は[[小松清廉|小松帯刀]]とともに9日には[[中川宮]]に、11日には[[近衛忠房]]に謁見した。3月2日、[[京都所司代]]への御沙汰書が降下された。内容は藩主親子及び五卿の江戸拘引を猶予すること、[[参勤交代]]の制度は[[文久の幕政改革]]の内容に戻すこと、将軍は上洛した上で国是を評議することであった。一橋慶喜、松平容保は所司代に御沙汰書を留置させた。御沙汰書は一旦撤回され、3月14日に本荘宗秀が参内して受け取り4月3日、江戸城に登城して幕府に提出した。
90行目:
武備恭順に藩論を統一した長州藩の重役は嘆願書を作り吉川経幹、広島藩、徳川慶勝を経て幕府へ上申した。6月23日、広島藩へ[[毛利元蕃]]、吉川経幹を大坂に招致する命令が出されたが、長州側は病気のため猶予を願うと回答した。8月18日、重ねての命令が出され、病気で無理ならば[[毛利元周]]、[[毛利元純]]、並びに長州藩主の家来が9月27日までに上坂せよと長州藩に伝えられたが、9月8日、長州側は再び病気を理由として拒否をした。長州処分が不振を極める中で幕兵の士気は落ち幕府の財政は悪化した。
 
このままでは将軍の畿内滞在態勢がいつ崩壊するか分からないため慶喜は再征勅許というイベントを起こして態勢を立て直そうとする。9月16日、大坂から[[徳川家茂]]が京都に入り9月21日、再征勅許をめぐる朝議が開かれた。近衛忠房は薩摩藩の大久保一蔵の入説により反対した。近衛忠房が朝議に出てこないため確かめると大久保が引き止めている。一橋慶喜は「匹夫の議に動かされて参内の時刻を移し、あまつさえ軽々しく朝議を変ぜんとするは奇怪至極せり、斯くては将軍を始め一同職を辞せんのみ」と激怒。朝議を牽引した一橋慶喜は再征勅許を獲得したが9月23日に家茂は大坂に戻った。
 
将軍が大坂に戻ったのは摂海に異国船が入ってきたためであった。9月23日、阿部正外、[[山口直毅]]、[[井上義斐]]は英国艦プリンセスロイヤルで英・米・蘭と、そののち仏国艦ゲリエールで仏国公使と会談した。イギリスの兵庫開港要求の諾否につき阿部は即答せずに大坂城へ持ち帰った。9月24日、25日と幕府首脳は会議を開いた。阿部正外と松前崇広は幕府の専権で兵庫大坂の開港開市を決めると決断し閣議をまとめた。回答の期日と約束したのは9月26日である。
 
『徳川慶喜公伝』によると9月24日、京都で将軍の招命をうけた一橋慶喜は25日夜に京都を出た。9月26日「明星の尚閃く頃」大坂に着いた慶喜は、大坂城の評議はすでに解散していたため阿部正外の宿舎を訪れ兵庫の応接を尋ねた。阿部正外は幕府の責任で決定したと返答し朝廷の許しが得れなければ将軍は辞職をすると伝えた。慶喜は勅許を得ずに開市開港すれば朝廷の信頼を失い諸藩も収まらないとした。「されば唯今より直に諸有司を城中に招集して再議せらるべし」として、そのまま大坂城に入った。9月26日、慶喜は公使には回答の延期を申し出てその間に天皇より勅許を貰うべきとし、阿部松前正外・崇広は幕府の独断で行うと主張。結論はでなかった。
 
[[立花種恭]]は延期の使者となりパークスに10日間の猶予を申し出た。立花から見たパークスは怒り、暴言を吐き、挙動傲慢であったが、にわかに語気を改めて10日間の猶予を認めた。この際に同行した大坂町奉行の井上義斐が誠意をもって英国と交渉し猶予を獲得したとされる。慶喜からみた両老中は10日間の猶予を貰ったと知らされると「別室に慶喜を招き」「涙を流して後悔の念をあらわして」どんな罪でも伏罪すると表明し当面は謹慎するとした。大坂の慶喜は回答を猶予した件を京都の容保に知らせると勅許獲得の工作を依頼。また将軍に謁見して速やかに上洛して条約勅許を申請すべきとして、自分は先乗りで帰京する旨を伝え9月26日の夕方に「鞭を挙げて京都に馳帰らる」。
 
9月27日に帰京した慶喜は朝廷に対して両老中は謹慎し、家茂は上洛して条約勅許を願い出ると報告をした。ところが阿部松前正外・崇広は以前と変わらず出仕をして上洛を約束した家茂は約束の日である9月29日になっても上洛しない。結果として食言をした慶喜は容保、定敬と大坂に下る旨を朝廷に申し出た。しかし朝廷の怒りは限界にまで来ていた。9月29日、朝議が開かれて阿部松前正外・崇広は改易切腹。大老の[[酒井忠績]]、老中の[[水野忠精]]は領地を半減永蟄居とする議案が全員一致で可決した。慶喜、容保、定敬は過酷な処置に対して寛恕を願い出て阿部松前の官位を剥奪し国許で謹慎という結論になった。その日のうちに評議の内容は大坂へ送られた。この後、将軍の辞職願(10月3日)と東帰の動き、条約勅許(10月5日)、家茂の大坂城帰還(11月3日)と続くが[[小笠原長行]]、[[板倉勝静]]の老中就任が実現し、朝廷では徳川家茂への失望が広がり、一橋慶喜の信望は高まった。
 
条約勅許の騒動が一段落つくと幕府は長州征伐に取り掛かる。11月20日、場所は広島の国泰寺。幕府側が永井尚志、戸川安愛、[[松野孫八郎]]。長州側は名門宍戸家の養子となった[[宍戸たまき|宍戸備後助]]が応接にあたった。ここで永井尚志は八か条の質問を宍戸に出すが、宍戸は疑惑を否定した。国泰寺会談には新撰組の[[近藤勇]]、[[武田観柳斎]]、[[伊東甲子太郎]]、[[尾形俊太郎]]も永井尚志の家来として同行した。『京都守護職始末』によると近藤は12月22日に会津藩へ出張の報告として、長州藩は武備恭順の姿勢であること。広島に滞陣中の幕府方の士気は落ちているため勝目が薄いこと。長州藩が表面で恭順ならば寛典な処置で対応していく方針が望ましいことを述べた。
 
=== 長州側の動き ===
2月20日、藩主親子は祖先の霊に対し藩内の擾乱を謝罪するとの名目で祭祀を布告して全ての藩士も参加をさせられた。2月28日、毛利敬親は[[湯田]]に入り巡視を行い民心を安堵させ、3月16日に諸隊は正式に藩の軍隊とされた。<ref>3月16日に諸隊は奇兵隊(375名、吉田)、御盾隊(150名、三田尻)、鴻城隊または鴻城軍(100名、山口)、遊撃隊または遊撃軍(250名、須々万)、南園隊(150名、荻)、荻野隊(50名、小郡)、膺懲隊(125名、徳地)、第二奇兵隊(100名、石城山)、八幡隊(150名、小郡)、集義隊(50名、三田尻)へ再編され総員は1500名へ削減された。</ref>23日、敬親は山口に集まった支藩主へ「天朝へ忠節、幕府へ信義、祖先へ孝道之事」の遵守を伝えたが、このとき吉川経幹は山口へ参集しなかった。3月26日、毛利敬親は世子の毛利定広を残して萩へ帰還した。4月25日、毛利敬親は山口に戻り吉川経幹は閏5月6日に山口へ出た。20日、藩主親子、支藩藩主、吉川経幹は会議を開き幕軍が攻めてくれば周防長門の二州は一致してことにあたると決議された。
 
4月4日、高杉晋作は[[トーマス・ブレーク・グラバー|グラバー]]、[[ラウダ]]との会見後に[[長崎]]より下関に戻り長府藩と清末藩から下関を取り上げて長州藩直轄として開港しようとした。22日、藩内に情報が洩れたため藩庁は開港はないと声明を出し、高杉晋作は下関出張を免じられた。同月下旬、攘夷派と長府清末藩の藩士から命を狙われた高杉晋作と井上聞多は藩外へ逃亡した。伊藤俊輔も対馬へ逃亡しようとしたが26日に亡命していた[[桂小五郎]]が下関に入った。5月13日、桂は山口で藩主に拝謁した。抗幕体制のため長州藩は一般政務を管掌する[[国政方]]、財政民政を管掌する[[国用方]]が政事堂の下に置かれた。27日、桂小五郎は国政・国用トップより諮問に預かる用談役に就任した。27日、[[村田蔵六]]も藩政の中枢に参画して近代洋式軍隊の創設にあたることになった。
 
閏5月1日、下関にいた[[坂本龍馬]]は[[時田少輔]]を通じて桂小五郎に会見を申し入れた。桂は時田よりの書簡を藩へ提出、藩主より下関に出る許可を得た。4日に下関へ入った桂に対して坂本龍馬、[[土方久元]]は10日前後に薩摩の西郷吉之助が上京するが途中で下関に寄ると伝え桂との会談を斡旋した。21日、[[中岡慎太郎]]は15日に薩摩を西郷と出たが西郷は下関に寄らず豊後佐賀関で別れたと手ぶらで下関に入った。不快とした桂へ坂本龍馬・中岡は陳謝、この件については一任してもらいたいと申し出て桂も了承した。
 
7月21日、井上聞多、伊藤俊輔が長崎へ入った。長州藩は抗戦武装のため小銃1万丁を求め[[青木郡平]]を長崎に派遣していたが、坂本龍馬は薩摩藩の名義で長州藩がイギリスより購入できるように薩摩藩へ運動。薩摩が同意したため桂は藩政庁の承諾がないまま井上、伊藤を長崎へ派遣した。[[千屋虎之助]]、[[高松太郎]]、[[上杉宗次郎]]、[[新宮馬之助]]は協議の上で小松帯刀に薩摩藩で伊藤井上を潜匿させるように依頼した。
 
7月26日、山口で藩主親子及び三支藩藩主、吉川経幹は会議をひらき、6月23日に広島藩へ毛利元蕃、吉川経幹を大坂に招致する命令が出された件は上坂拒否と決定。上坂猶予の嘆願書が広島藩を通じて幕府へ出されたが幕府は却下した。ただし長州藩も大義を主張する必要があるとして重臣より正副2使が派遣される運びになった。
 
長崎でイギリス商人と交渉した井上伊藤は山口藩庁へ「ミネーゲベール短筒四千三百挺、ゲベール三千挺」を購入したと報告し、小銃は薩摩藩の[[蝴蝶丸]]に積み込み8月下旬に三田尻で陸揚の手配となった。9月6日、山口において藩主親子に謁見した井上聞多は小銃購入の手配に上杉宗次郎の功績が大きかったと報告した。藩主親子は上杉を山口に招き三所物を与え9月8日、[[島津久光]]と[[島津忠義]]親子へおくる書簡を上杉へ託した。木造蒸気船[[ユニオン号]]も購入する段取りとなったが、これは藩内外に紛糾が起こった。
 
9月16日、大坂から徳川家茂が京都に入り長州再征勅許獲得の運動が始まった。24日、大坂を出た坂本龍馬は10月3日、三田尻へ入った。坂本龍馬は上方に藩兵を駐屯させる薩摩藩のために兵糧米を提供してほしいという名目で長州に薩摩の交渉を持ち出した。坂本龍馬は山口政庁の[[山田宇右衛門]]、[[国貞直人]]、[[中村雪樹|中村誠一]]、[[広沢藤右衛門]]に説いた上で、10月下旬まで桂小五郎のいる下関に滞在した。
 
10月7日、井原主計を正使、宍戸備後助(山縣半蔵)を副使として両名は大坂へ出張するように命じられた。10月22日、井原宍戸は広島に入り26日に大坂へ出発すると決まったが前日に井原は無断で帰藩をした。山口藩庁は29日、宍戸に一人で応対するように命令を出した。広島に出張した使節団は広沢藤右衛門を中心として宍戸備後助が応接に専任(後に[[木梨彦右衛門]]を副使とする)。会見の段取、長州藩と幕府との連絡は広島藩が担当した。山口の政事堂には現地の様子は使節団より逐次報告された。
126行目:
以下、年の記述がない場合は1866年とする。但、旧暦の日付とする。
 
1月22日、幕府は長州処分の最終案<ref>藩主親子の朝敵の名を除き、封地は10万石を削減、藩主は蟄居、世子は永蟄居、家督はしかるべき人に相続させ、三家老の家名は永世断絶</ref>を奏上、勅許が下された。26日、小笠原長行が長州へ幕命を伝えるため広島に下ることが決まった。2月7日の朝、小笠原長行を含む幕府の高官たちが広島へ到着。22日、小笠原長行は広島藩を通じて、三支藩藩主、吉川経幹と宍戸備前、毛利筑前(以下、二家老と記す)に召喚命令を出したが病として拒絶された。24日、芸州先鋒の彦根藩より安芸国と国境を分かつ岩国藩へ使者が送られたが吉川家は宗家と行動をともにすると回答して幕府の離間策は奏功しなかった。
 
長州挙藩一致を示す事例として2月、藩主の内覧を経て小冊子「防長士民合議書」が印刷、藩内外へ頒布された点が挙げられる。防長武士および農民の対幕府決戦の覚悟を述べたこの冊子は『防長回天史』によると36万部印刷された。実際は数千部に過ぎない(『忠誠公勤皇事蹟』)とも、宍戸備後助が起草、製本を指示し「内輪ハ後ニテモ他邦ヘ早ク配リ度」と催促してるように広島における幕府との交渉において挙藩一致体制を擬装するための宣伝工作文書であるとも指摘がある<ref>三宅紹宣『幕末・維新期長州藩の政治構造』p266</ref>。
 
3月26日、小笠原長行は広島藩を通じて4月15日までに藩主親子と孫の興丸、三支藩藩主、吉川経幹、二家老が出頭するように命令を出し宍戸備後助には帰国して幕命を伝えるように命令した(4月2日に出された召喚命令により出頭期日は4月21日となる)。山口政庁へ急使を送った宍戸は4月5日に広島を発して6日に高森に入り同地で留まり事前の打ち合わせ通り出番を待つことになった。4月4日(または5日)、長州藩の諸隊のひとつ第二奇兵隊で暴発事件が起きた。
 
4月13日、毛利敬親は宍戸備後助を名代とした。22日、宍戸は再び広島へ入り三藩主、吉川経幹も名代を立てて広島へ送り込んだ。5月1日、国泰寺において小笠原長行は四家名の名代に対して幕命を伝えたが、宍戸は病気として旅館から出なかった。幕府は末家名代をして宗家名代を兼ねさせて長州藩へも幕命を伝えることにした。3日、幕府は四家名の名代に対しては速やかに帰国して主人へ伝え、20日までに請書を出すように命令が下された。広島へ滞在するように命じられた宍戸備後助、小田村素太郎は5月8日に拘束され広島藩に預けられた。請書の提出は吉川経幹からの請願により5月29日を期限としたが、この日までに命令に従わなければ6月5日を以て諸方面より進撃すると決定した。
 
4月14日、大久保一蔵は板倉勝静へ薩摩藩は出兵を拒否するとした建白書を提出した。板倉勝静は勅命により長州征討を起こした幕府の正当性を主張し建白書を拒絶したが、幕府がこれまで幕府が勅命を無視してきた事実を列挙した大久保と論戦となった。再三の交渉の結果、大久保は板倉勝静へ建白書を受け取らせることに成功した。
 
6月3日、徳川茂承は広島へ向かい、6月2日に広島の小笠原長行は小倉へ向かい、茂承は石州口へ転じて、茂承の代わりに本荘宗秀は広島に入った。
 
== 第二次長州征討 ==