「ドブロネガ・ウラジミロヴナ」の版間の差分

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==生涯==
ドブロネガは[[キエフ大公]][[ウラジーミル1世]]の娘とみなされているが、複数いた妻のうちのどの娘であるかは史料上明らかではない。ただし、メルゼブルクのティートマール[[:de:Thietmar von Merseburg|(de)]]{{refnest|group="注"|「メルゼブルクのティートマール」は{{lang-de|Thietmar von Merseburg}}による。「ティートマール」の表記ゆれについては[[ティートマール]]、メルゼブルクについては[[:de:Merseburg]]を参照されたし。}}の著作によって、ドブロネガはウラジーミルの娘たちの中で、最も結婚が遅かったと推測することができる。なお、ドブロネガウラジーミルの子のボリス[[:ru:Борис Владимирович (князь ростовский)|(ru)]]([[ボリスとグレブ]]の一方。)の娘とする説もある。
 
1040年前後に{{refnest|group="注"|『ブロックハウス・エフロン百科事典』によれば1043年となっている<ref name='ЭСБЕ'>[[:ru:s:ЭСБЕ/Казимир, польские короли|Казимир, польские короли]] // [[:ru:s:Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона|Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона]]</ref>。諸説あり。}}、キエフ大公[[ヤロスラフ1世]](ドブロネガの兄弟)によって、[[ポーランド公]][[カジミェシュ1世]]との婚儀が結ばれた。この結婚はポーランド王位をめぐるカジミェシュの政権闘争を支援する目的のものだった<ref name='ЭСБЕ'></ref>。カジミェシュは[[1058年]]に死亡するが、その間に4人の息子と1人の娘を産んだ。