「ルーテル教会」の版間の差分

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→‎芸術・文化: アウグスブルクの和議は後年プロイセン王国、ザクセン王国では事実上無視され、ルター派以外の信仰も容認されていた。そのため、(注意)以下は削除。
→‎歴史: 一部訂正
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アメリカへはヨーロッパからの移民と共に、ルター派の勢力が拡大、18世紀の中頃になり本格的な教派の生成が行われた。19世紀以降、ドイツや北欧のルター派が大量に移住し、[[アメリカ合衆国中西部|アメリカ中西部]]を中心にして定住した。
 
[[1817年]]の[[プロイセン王国|プロイセン]]においてルター派と改革派による[[合同教会]]が設立された。教会合同によって設立された[[古プロイセン合同福音主義教会|プロイセン福音主義教会]]には、[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]によって作成された[[古プロイセン合同福音主義教会#フリードリヒ・ヴィルヘルム3世による礼拝式文|礼拝式文]]
が下賜された。その式文は[[ニュルンベルク]]のルター派教会礼拝式に倣ったものであり、ローマ・カトリック教会の[[ミサ]]に準拠したものであった<ref> クピッシュ『ドイツ教会闘争への道』([[雨宮栄一 (神学者)|雨宮栄一]] 訳、[[新教出版社]]、1967年)</ref>。この復古的式文の影響はプロイセン以外のドイツのルター派領邦教会にまで及び、簡素な礼拝に向かっていたドイツのルター派教会の礼拝は宗教改革以前の様式に戻ってしまった。プロイセン福音主義教会はその後、[[古プロイセン合同福音主義教会]]と名称を変えていく。この合同教会内ルター派から[[告白教会]]の指導者[[マルティン・ニーメラー]]と神学者[[ディートリッヒ・ボンヘッファー]]が輩出される。
 
この合同に加わらなかったドイツ人ルター派の一部がアメリカに移民し、[[セントルイス]]周辺で発展して、ルター派教会ミズーリシノッドを形成した。このルター派教会ミズーリシノッドはその後も独自の保守的路線を一貫して守り、20世紀におこなわれたアメリカ国内のルター派教会合同の流れにも加わらなかった。アメリカには880万人のルター派教会の会員がいる。19世紀以降、ドイツ、北欧やアメリカからアジアやアフリカへ伝道がなされ、[[タンザニア]]、[[インドネシア]]には大きなルター派教会が存在している。19世紀以降、ドイツからの移民が南米諸国にも向かい、ルター派教会が各地で設立された。