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一年の療養を終えて、[[1901年]](明治34年)に[[東京外国語学校 (旧制)|東京外国語学校]](現・[[東京外国語大学]])[[イタリア語]]科に入学。[[1903年]](明治36年)には[[小山内薫]]の紹介で、かねてより傾倒していた[[島崎藤村]]を[[小諸]]に訪ねた際、[[ピサロ]]の絵を初めて見せられ衝撃を受ける(藤村との交流は生涯続き、のちに藤村の『[[千曲川のスケッチ]]』の装丁も手掛け、藤村が没した際は生馬が葬儀委員長を務めた)<ref name=satsuma/><ref name=koyano/>。[[岩元禎]]に紹介を頼み、大学の卒業式が終了したその足で洋画家[[藤島武二]]のもとを訪ね、住み込みの生徒となるが、しばらくして駒込円通寺に転居し、[[日露戦争]]終戦後の時期である[[1906年]]([[明治]]39年)5月、イタリアに向かう<ref name=satsuma/>。元電話交換手から絵画モデルになり生馬と知り合って有島家の女中となった恋人・関安子の世話を友人らに頼む<ref name=koyano/>。
薩摩出身のイタリア公使・大山綱介の紹介で6月にローマに居を構え、古典美術を学びはじめるが、同年9月に訪ねてきた兄・有島武郎とともにヨーロッパ各地を巡る旅行に出かけ、同年12月末から[[パリ]]に留まるも、ロンドン滞在中の武郎を訪ねて過ごし、翌[[1907年]](明治40年)2月末からパリの美術学校グラン・ショミエールに通いはじめる<ref name=satsuma/>。6月には[[ラファエル・コラン]]の画室を訪ね、夏にはヨーロッパに留学中の旧友らと交流を楽しみ<ref name=satsuma/>、同年秋に[[セザンヌ]]回顧展を見て感銘を受ける。パリでは[[荻原碌山|荻原守衛]]、[[高村光太郎]]、[[南薫造]]、[[梅原龍三郎]]らとも交流した<ref name=miyakoshi/>。
[[1910年]]([[明治]]43年)2月に帰国し、武郎、弟・里見弴とともに『[[白樺 (雑誌)|白樺]]』同人となり<ref name="NnK">[[稲垣達郎]]作有島武郎年譜『有島武郎・里見弴 現代日本文学館15』所収 文藝春秋,1968</ref>、セザンヌをいち早く紹介する。 同年、女中の関安子を捨て、
== 著書 ==
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