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[[明治]]時代以後は[[1885年]](明治18年)に阪堺鉄道(後の[[南海電気鉄道|南海鉄道]])の[[難波駅]]が、[[1889年]](明治22年)には大阪鉄道(後の[[関西鉄道]]、現在の[[西日本旅客鉄道]])の湊町駅(現在の[[JR難波駅]])が開業し、奈良県や和歌山県の木材や農産物などが集まった。木津には大きな[[市場]](現在の[[木津卸売市場|木津地方卸売市場]])ができ、日本橋以南の[[堺筋]]は[[松坂屋]]ほか商店、古物商や古本屋が軒を並べる繁華街となった。また[[1903年]](明治36年)の第5回[[内国勧業博覧会]]以後は[[新世界 (大阪)|新世界]]がレジャーセンターになるなど遊興地としても栄えた。一方、市街地の拡大に伴い、大正時代には堺筋の裏側に長町スラムが広がっていたため、当時の大阪市は画期的な鉄筋アパート<ref>下寺住宅・日東住宅などの通称「軍艦アパート」。</ref>を建設するなどこの地域の社会改善、住宅改良に力を入れた。スラムは[[西成区]][[釜ヶ崎]]に移転し、現在の[[あいりん地区]]となった。
 
戦後は日本橋(恵美須町)が焼け野原から電気街として繁栄したが、産業構造の変化などに伴い中小企業や工場主体の地域の活力は落ち始めた。この地域にあった[[大阪スタヂアム|大阪球場]]や[[クボタ]]の工場、湊町駅の[[貨物駅]]などが相次いで再開発の対象となった。[[バブル崩壊]]後、これらの再開発は足踏みしたが、2000年代以降には超高層マンション群やオフィスビル、商業施設の開発が行われている。また中小工場の廃業が相次いだほか、日本橋では[[郊外]]の大規模電気店・[[梅田]]への[[ヨドバシカメラ]]出店などの影響で多くの家電店が撤退に追い込まれ、[[オタク]]向けの街へと変貌している。新世界は繁華街としてはすっかり老朽化したが、戦後の雰囲気を色濃く残すため観光に来る人も多い。
 
比較的地価が安いため、[[アジア]]・[[ヨーロッパ]]・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[オセアニア]]などからの出稼ぎ労働者やホステス、外国語教師など外国人の居住が多いほか、若い単身者向けのワンルームマンションも多いのも特徴。区の人口は[[1940年]](昭和15年)に約15万人いたが、その後の空襲による市街地の破壊やドーナツ化現象、生活環境の著しい悪化などに伴い長く減少傾向にあった。しかし近年再開発によりマンション建設が進み、[[都心回帰]]によって再び増加傾向にある。特に単身男性の転入が加速しており、浪速区の[[性比]](女性を100とした時の男性の比率)は大阪市95.0に対して104.8とかなり男性の割合が高い。なおこの数値は南隣の西成区に次いで大阪市内第2位である。長らく大阪市内で人口が最も少なかったが、都心回帰による流入増加で2014年5月に此花区と大正区の人口を上回った。
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* 難波中(1~3丁目) なんばなか
* 元町(1~3丁目) もとまち
* [[湊町 (大阪市)|湊町]](1~2丁目) みなとまち
* 敷津東(1~3丁目)しきつひがし
* 敷津西(1~2丁目) しきつにし