「水野忠幹 (紀伊新宮藩主)」の版間の差分

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[[慶応]]2年([[1866年]])、第2次[[長州征伐]]では幕府軍の先鋒を務め、各地で幕府軍が敗れる中で、忠幹が率いる軍勢だけは[[安芸国]]佐伯郡大野村まで進撃するという大戦果を挙げた。幕府軍が撤退する中では殿軍を務め、[[長州藩]]の軍勢もその忠幹の武勇を恐れて追撃できず、「鬼水野」と畏怖し、あるいは賞賛したと言われている。
 
慶応4年([[1868年]])[[1月24日]]、新政府の「維新立藩」により、忠幹は3万50005,000石の大名として認められ、新宮藩を立藩している。[[戊辰戦争]]が起こると紀伊藩は[[徳川御三家|御三家]]の一つであったことから幕府側に就くとして、新政府側から疑われた。[[2月1日]]、忠幹は自ら上洛して必死に弁護し、紀伊藩の存続を実現した。
 
[[明治]]35年([[1902年]])、65歳で死去した。法号は真徳院殿忠幹日現大居士。墓所は[[神奈川県]][[鎌倉市]]の高松寺。